4本の腕を持ち、右にはチャクラ(円盤、あるいは輪状の投擲武器)と棍棒を、左にはパンチャジャナ(法螺貝)と蓮華を持つ男性の姿で表される。そのためチャトゥルブジャ(4つの武器を持つ者)という称号も持つ。 チャクラは「スダルサナ」とも呼ばれ、万物を断ち切る程の威力を持ち、一切の無知を破る宇宙神の偉大な力の象徴といわれている。

 

メール山(須弥山)の中心にあるヴァイクンタに住んでいる。ヴァーハナ(乗り物)はガルーダと呼ばれる鳥の王で、鷲のような姿で描かれたり、鷲と人を合わせた様な姿で描かれる。 神妃(妻)はラクシュミです。

 

 宇宙が出来る前にヴィシュヌは竜王アナンタの上に横になっており、ヴィシュヌのへそから、蓮の花が伸びてそこに創造神ブラフマーが生まれ、ブラフマーの額から破壊神シヴァが生まれたとされている。

 

 古くはリグ・ヴェーダにもその名の見える起源の古い神格で、世界を3歩で踏破する自由闊歩の神だった。その名はサンスクリットで「広がる」「行き渡る」に由来し、恐らくは世界の果てまで届く太陽光線の神格化であったと考えられる。

 

 

シュリ―マド・バーガヴァタムの第7巻1話の『ジャヤとヴィジャヤの物語』

 

ヴィシュヌ神の住む天界ヴァイクンタの門番であったジャヤとヴィジャヤは、ヴィシュヌ神のダルシャン(拝謁)に訪れた、子供のように純粋無垢で汚れのない聖者サナカとサナンダを門前払いにするという無礼を働きました。なぜなら、二人の聖者は何も衣服を身に着けておらず、ただの子供だとみなしたからです。 しかし、二人の聖者は、神は三属性(浄性・激性・鈍性)を超越し、自分たちも同じように三属性も肉体意識を超越しているから、ヴィシュヌ神のダルシャンを受ける権利があると抗議しました。  それでも、ジャヤとヴィジャヤは、裸のまま聖者を中に入れることを許しませんでした。門番の無礼に激怒した聖者サナカとサナンダは、ジャヤとヴィジャヤをヴァイクンタから追い出し、羅刹に生まれ変わるよう呪いをかけました。門番の二人は、聖者に許しを請い、ヴィシュヌ神に泣きつきますが、呪いは取り消すことはできませんでした。 二人は償いとして、羅刹として3度生まれ変わり、ヴィシュヌ神の敵となって激しい憎悪や怒りを口にしながら生き、ヴィシュヌ神の手によって死ぬことで天国に戻ることを受け入れました。  こうして、ジャヤとヴィジャヤは、恐ろしい悪魔のような所業を繰り返した、ヒラニヤークシャとヒラニヤカシプ、シシュパーラとダンタヴァクトラ、ラーヴァナとクンバカルナという羅刹の兄弟に生まれ変わり、ヴィシュヌ神の敵として激しい憎悪に生きて、ヴィシュヌ神の手によって死にました。その結果、天界のヴァイクンタに戻ることができたのです。

 

この話には続きがあります。ラーマ神に殺されたラーヴァナの最期は、激しい憎悪の青白い炎とともにラーマ神と1つになったと言われています。シシュパーラの最期も、激しい敵意のままクリシュナ神に吸収されていった美しい光景を、パーンダヴァ5兄弟の1人ユディシュティラは目撃し、非常に驚かれたそうです。そのような類まれな光景の意味を、天界の聖者のナーラダは解き明かしました。

 

「人は恋慕、信仰、恐れ、愛着、敵意、憎しみなど、いかなる想いによってでも、たえず神を自分の心に結び付けるように努力すべきなのです。そうすることで、神以外、何も知覚しなくなり、神と1つになります。たとえ敵意によってでも、常に神を想い続けたのなら、彼の罪を清められて、容易に迅速に神を獲得することができるでしょう。」

 

私たちは、善い心・善い言葉・善い行為を実践し、悪い人たちや悪い行為を忌み嫌います。それは、正しいことでしょう。

だけど、『ジャヤ・ヴィジャヤの物語』は、その善と悪にの2元性を超えた、純粋な神性の意識にたどり着かなければならないことを伝えています。なぜなら、神は、善も悪も、敵も味方も、超えた存在だからです。

ありがたいことに、神に近づき、神を獲得するには、信仰でなくても敵意でも怒りでも憎しみでも大丈夫だと明言しています。

ですから、これを使わない手はありません。絶望の淵に突き落とされ苦しみ悲しんでいる方、生きる意味を無くし死ぬことしか選択肢が残されていない方は、「なぜ、こんなに苦しめるんだ!生きる意味なんてあるのか!もし神が存在しているなら、目の前に出てこい!」と叫んでみてください。私の経験上、想いと言葉が真実であれば、必ず神様が現れます。