蘇我馬子大臣は、深く仏教に帰依していましたが、なぜかいつも病気がちでした。原因を占うと「神の祟り」と出ました。そのことは天皇陛下にご報告されました。陛下は、側に控えていた太子に問われました。「我が国の基は国神(くにつかみ)の祭祀にある。大臣は他国神(あだしくにのかみ)を招き、祀った。それ故の祟りであろうと思うが、太子はどう思うか」太子は、「神々は三宝に従うものです。神祇があえて仏とたがえ、祟りをなすなどということはありえません。大臣が仏法を請じたことは、国にとって福でございます。大臣には仏を祀ることをお許しになることがよろしいと存じます」世間では疫病がはやり、多くの人たちが亡くなり、病人であふれていました。物部守屋(もののべのもりや)は、疫病の猛威がおさまらないのは、蘇我大臣が他国の神を招いた祟りです。このままでは人民は絶えてしまうでしょう」と敏達天皇に進言しました。敏達天皇は、ただちに詔(みことのり)を下され、仏法の断絶を命じられました。太子は陛下に、「疫病などの災いは、自らの悪業の結果であり、神の祟りでも、仏の災いでもありません。疫病を除くには悪業を浄化し、善業を集積するべきと存じます」と進言されました。しかし、14才の少年の言葉は聞き入れられませんでした。守屋たちは、陛下の詔に力を得て、仏塔を破壊し、仏像に火を付けました。仏像は燃え切らなかったので、それらを集め、水路に捨て、三人の尼僧の法服をはぎ取り辱めました。この日、大風が吹き荒れ、雲がないのに大雨が降りました。太子は言いました。「災いはここに始まりました。疫病がはやり、死者が国を埋め尽くすでしょう。病人は焼かれた仏像のかわりに『身が焼けるようだ』といい泣き叫ぶでしょう」太子の予言通り、国中は病人であふれかえりました。人々は守屋を怨み、太子に味方しました。そこで蘇我大臣は陛下に、三宝をまつるお許しを請いました。陛下は蘇我馬子一人が私的に祀るなら「これを許す」と勅許されました。585年、このときから日本国にはじめて仏教が導入されたのです。