天狗の日本国に其名高きは天南坊は○○○○、大郎坊○○○○○、歓喜坊○○○○、普賢坊宇治左大臣、三密坊獻山法務大僧正、火乱坊は三井寺頼豪法印、光林坊鎮西八郎為朝、東金坊は六条判官為義、是を八天狗といふ。又東金増源義経、元参坊悪源太義平、延山坊平将門、密角坊は能登守教経、青胆坊平知盛、歓天坊新田義興、寒栄坊柿本人麿、転州坊篠塚伊賀守、是を九岳後天狗といふ。


平田篤胤は神仙道では、神界の大永宮の内、衆議官になっており、仙名を羽雪大霊寿真仙という。仙官は仙界に上がると寿真号を貰うとあり、少霊寿真から大霊寿真になり、霊寿真にも仙階は何段もあるとのこと。

 

平田篤胤の生家の名字は大和田であります。大和田氏は其の昔、関東で尤も勢力のあった千葉氏の流れを汲んでいます。始祖は平将門とされます。つまり、大和田氏も将門の子孫であり、篤胤は将門の末裔です。大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災の後、大蔵省の敷地内にあった首塚を潰して仮庁舎を建てましたが。その後、大蔵大臣早見整爾が急死。管財局職員たちが10名以上も死亡し、他にも10名以上が庁舎内で大怪我をしました。「将門公の祟り」と首塚を元通りに建て直しました。其の時、慰霊祭を取り行ったのが神田明神社司の平田盛胤氏でした。盛胤氏は篤胤の曾孫です。昭和15年(1940年)6月の落雷で大蔵省や通信省航空局などが全て焼失してしまった。大蔵大臣は将門公没後、1000年だったことに気付いた。その時の慰霊祭も平田盛胤が呼ばれ、壊れた碑を新調し、将門の御霊を鎮めた。平田篤胤は将門公を信奉して、大きさ60cmほどの神像をつくった。文政2年(1829年)3月13日日記。「将門さまが花見においでになられた」と書く。場所は上野か王子飛鳥山。神像を連れ立って、酒でも酌み交わしたと思われる。篤胤はこの木像に将門の魂を宿したに違いない。