幽魂。予は父を慕ひてはるばる此地に来りしものなるが、父は此地にて船を雇い、単身肥前国唐津に赴きたり。その時父は予に向い、汝は是非ともこのまま本国に帰れ、一歩も隨うこと叶わず。若したって帰国せぬとならば、吾子にあらずとまで言わるるまま、子として身に徹し腸に通りて、その旨を承ることになりたり。さればとて亦国元へ帰り難き深き仔細あり。ただ独り跡に取り残されたる身は進退全く爰に谷まりて、終に切腹して相果て、爾来爰に数百年、空しく無念の涙を呑むのみ。わが死骸は切腹のまま土中に埋められて人知れず朽ち果てたり。
斯く述べて幽魂は潸然として涙を浮べ、世にも悲しげな面持ちをあらわしました。
宮崎。その無念はさる事ながら、幽魂いかなれば斯く長く当家にのみ崇りをなすや。それとも又他家にも崇りたることありや。
幽魂。当家に対しては因由 ありて崇るなり。他家にも崇りしことはありたれど、只病気に罹らせしまでにて、一度も今日の如く言語を発したることなし。これ迄当家に尋常ならぬことの頻発せるは皆吾魂気わが遺骸の埋まりし地より通い来て為せし仕業なり。同じ災厄が代々起りしは皆吾が所為なれば、早くそれと悟りて祀りくれなば難有かりしものを、それに気のつく者の無かりしは無念なりし。四年前に当家の祖父も、我遺骨の上にて大病に罹り、又この市治郎も我骨の上を踏みしにより、われ瘧となりて其身に憑けり。廿三日の早朝わが魂の鎮まる所を知りて砂を堀り、浜に棄てたるは無法の所置なり。之が為めに我は行くべき所を失いたり。
市治郎は七月四日曾祖父の墓の傍らの少し東方を踏んだ時に総身悪寒を感じ、それから瘧に罹ったのだそうです。総じて此家では七月四日に死んだ人が沢山あるということです。
宮崎。汝の願望とは何事なりや。又割腹の当時は何歳なりしや。又姓名は何と名告りしぞ。
幽魂。わが願望は一基の石碑をたてて貰うことにて、その一事さえ諾せらるれば、今夕立所に此家を立退くべし。一念凝りても数百年の間、終に時と人とを得ざりしが、今や漸く其機会に臨みたり。わが切腹せしは二十二歳の七月四日なりき。わが姓名は名告り難し。
宮崎。姓名を名告らずんばいかにして其石碑をたつべきぞ。従って願望の事承諾し難し。
此時幽魂は武士の義を演べ、姓名の名告り難きをいろいろに依むのでした。が、宮崎氏は承知しませんでした。
宮崎。其許の申す条一応尤なり。されど、姓名を刻せざる石碑をたつるは神道の方式に叶わず。われ神道に背きて碑をたて難し。
幽魂。嗟呼何たる事ぞや。君に仕えし姓名を、私の願いの為めに明さで叶わぬ身となりしこそ口惜けれ。打ち明けねば願望成らず、願望ならざれば、これ迄に人を悩ましし事は皆徒事となる……。
と嘆息するのでした。医師の吉富氏も言を尽して姓名を名告れと迫りました。幽魂はこの時吉富氏に向いまして、
幽魂。其方に一つの頼みあり。先刻の御剣身にしみじみと忘れ難し。今一度あれなる人の御加持に預りたし。其方御苦労乍ら申しつぎて頼みてくれよ。
かく述べた時の言葉は、いかにも加賀辺の方言にて、大名などが平人に申すべき言い振りであったそうです。吉富医師と幽魂との間には引きつづいて問答が行われました。吉富氏は何故幽魂があの剣を慕うのかを尋ねました所、幽魂は別に深い仔細ありての事ではないがと言い、ややありて低声で『さてさて』と歎息し、何事にかいたく感動せる体なりしが、重ねて『あの三振の中なるがいかにして』と言って俯いたそうです。
宮崎。石碑建立の件も、又御剣加持の件も姓名を聴かざる内は承諾し難し。速かに名告られよ。
吉富氏も傍から言葉を添えました。――
吉富。これまでしばしば申す通りなるを何故にかくは深く隠さるるぞ。さばかり包まるるに於ては、とても其許の御願望は叶わざるべし。
幽魂。われ割腹を遂げ、無念に果てしその遺骸に砂をかぶしたるまま、数百年打棄てられたり。この苦悩を脱れん為めに、今まで人を悩ますとは、さてさて拙なき運命の身の上なり……。
かく述べて涙を浮べ、しばし俯いて居ましたが、やがて紙と硯とを貸せよと言い、それを取ると、静かに墨を磨り流し、紙面に『泉熊太郎』と明記しました。そしてそれを手に持ち乍ら吉富氏に向い『石碑は高さ二尺二寸にして、正面には七月四日と書けばよし。此姓名は必らず世に漏らしてくれまじきぞ。』と言い、更に又筆を執りて石碑の形までも書き添え、別に『七月四日』の四字を自筆で書きましたが、その筆勢は実に美事なものだったそうです。