宮崎氏が迎の船で岡崎家へ行ったのは八月二十四日の午後でした。主人から委細の病状を聴き、それは恐らく野干のぎつねなどの所為ではあるまいかとの鑑定を下しました。が、発病以来病人の看護をしていた相撲取の長吉という男はそれに反対でした。『狐ならからだのどこかに塊物かたまりがありそうなものだが、いかに撫でて見てもそんなものは見当りません。事によると女の生霊いきりょうかも知れませぬ……。』そんな事をいうのでした。

 そうするうちにも、病人が今にも死にそうだ、との注進があったので、宮崎氏をはじめ、一同連れ立ちて急いで病室に入りましたが、それは母屋おもやの対側なる役宅の奥の一間でした。

 其所そこには医師の三木という人が、先刻からしきりに病人に与うべき薬法を考えて居ました。彼は宮崎氏に向って言いました。『拙者は野干のぎつねの仕業かと思います。しかじかの薬を飲ませましたが、病人はすこしも否まず皆飲みました。ドーも何物が崇っているのか、拙者にはとんと見当がつきませぬ……。』いかにも当惑の体でした。

『兎も角も拙者の修法を施して見ましょう。』

 そう言って宮崎氏は携え来れる官服を着し、二筋の白羽の矢を手に持ち、又一振の長剣を病人の弟信太郎に持たせ、病人の枕辺に近づきておはらいを唱え、加持の修法に取掛りました。数人の医師、家族の人々、その他親類縁者等取りまぜ三十人許り列坐してこれを見物しました。

 お祓及び祝詞のりとの神文を唱うるうちに、次第に病人の状態が変って来ました。彼は自然自然と頭を上げ、又両手を膝の上にキチンと載せました。死に瀕せる大病人がんな真似まねをするのですから宮崎氏をはじめ、何人も、これはてっきり怪物の所為に相違あるまいという念慮をいよいよ強めたのでした。

 加持はいよいよ進みました。宮崎氏が十くさ神宝かんだからの古語を誦しつつ、白羽の矢もて病人の肉身を剌す法を行いましたが、不思議な事には更に何の手答もありません。『八握剣やつかのつるぎ!』と唱えてその矢を病人の胸元に擬したる時には、さすがに後方しりえにのけぞりかけましたが、たちまち持ち直し、きっと威儀を整えたる状態はなかなかもって病人らしくは見えませんでした。

 宮崎氏は一心不乱に、法を替え改めてさまざまに加持して見たが、何の甲斐もない様子を見て今度はかの弟信太郎に持たせてある長剣を抜放ちて、病人の真向に切りつけんとしました。おどろくかと思いの外、病人は衣服の膝の辺をつまみ上げてしっかと坐り、たまたま傍に有り合わせた煙管きせると鉄製の火入とを左右の手に掻いつかみ、宮崎氏の振りかざした長剣の切先きを、明星のような眼光まなざし身構みがまえして睨みつけました。此方こなたが長剣を左に振れば右に見つめ、右に引けば左に付け、その間秋毫しゅうごうもまじろがす、片時も油断せず、さながら一騎当千の猛士の態度もくやと思わるるばかり、その場に居合わせたる多数の人々も面色土の如く、ワナワナと総身に胴慄を起したのでした。

 かくて宮崎氏は長剣を高く振り上げつつ、声高らかに呪文を唱え、エイヤオウ! と叫びの声をかけますと、病人は初めて右の神文をきき分けたものか、それとも加持にて切りつけられたと思ったものか、たちまち手に持てる火入も煙管きせる其処そこに放り出して二尺ほど飛びじさり、謹んで平伏しました。その時久しくくしけずらざりし乱髪がバラバラと胸や肩を埋めたので一層物凄かったといいます。