ホワイト・ターラーさんにはリブログさせていただき感謝いたします。m(_ _)m


以前から度々紹介されている、右脳覚醒の“ネドじゅん”さんと森林療法の“まっすー”さん、このご両人の悟りのプロセスというか因となった事象について考えてみたいと思います。


強烈な意志 と 強烈な全一性


まっすーさんが森林浴をすすめるのも、ネドじゅんさんが身体を感じることをすすめるのも、私の体験からも、全て《 脳 の 情 報 処 理 》に関わることと理解しています。


ネドじゅんさんのはいわゆる悟りが起こる前には、身体の声を聞こうと努力されていました、これは普通の瞑想方法として既にある、身体を感じる方法と同じ方法だと思います。


一般的に身心に何らの異常のない人が行う“身体を感じる”ことと一つ違うのは、ネドじゅんさんにあった身心の不調だと考えます、その身心の不調は“まっすー”さんにも共通なことでありました。


この緊急で切迫した身心の不調から脱したい!という強烈な、思考を超えた “ 心 情 ” が因となり、自分の “ 思 考 と 妄 想 ” を超越させ停止する方向へ向かわせたことがうかがえます。


そしてこの身心の不調から一刻も早く脱したいという強い欲求が、自己の精神を “ 全 一 ” にさせることに、最大限寄与していたと思われます。


このご両人以外にも似た体験をしている“ジュンコロ”さんという方も、やはり問題解決の為に“全一”にモニターを凝視して検索した時に“非二元”の体験をされていたりします。


やはりこれも、“ 思 考・妄 想 ” 以外の情報へ全一に集中したことを因として起こったことではないでしょうか。



“ 膨 大 ” な情報処理を行っている “ 脳 ”


ネドじゅんさんの言う “ 膨 大 な ” 身体情報。


NHKのBSプレミアムで放送された、ヒューマニエンス選 『ホルモン』


この中で言われていたのは、“ 脳 ” は全身とホルモンによって常に“情報交換”している、と言うことです。

特に第2の脳とされる “ 腸 ” とのホルモンのやり取りは、それこそ “ 膨大な量の情報 ” なのです。


私たちはそんなやり取りが行われているとはつゆ知らず、何気に生活していますが、実際は大変なことが身体内部で起きている訳です。


例えばホテルの朝食バイキングで食事をしたとします、何十と並ぶ料理をたらふく食べた後の胃腸はどうなってるいるのでしょう。


たぶん何種類もの消化酵素から始まって何種類ものホルモンが分泌され、それらが脳とやり取りして、消化から細胞とのエネルギーのやり取りまで、凄まじい量の情報を処理されていて。


その全ては、私たちの顕在意識に意識されることが無いまま、潜在的には膨大な“意識”によって全て一つも残さずに知られていると私は考えています。





森と身体に共通な “ 膨 大 な 情 報 ”

 


この “ 膨 大 な 情 報 ” と悟り体験について、上記拙blogにおいても触れようとしましたが忘れていてできていませんでした。


上記で触れている “ 絶 対 美 ” はネドじゅんさんとNaokimanさんの以下のYouTube動画でも触れています。

 


この動画の、冒頭2分40秒辺りからネトじゅんさんに起こった悟り体験が始まります。

その中で、左脳が停止して右脳に自意識がスイッチした直後から天国のような世界が体験される様が生々しく語られていて、そのままで、絶対的な美が現れたことが言われています。

これは、左脳を病んで右脳で天国的な体験をしたジル・ボルト・テイラー博士と同様な体験であるとホワイト・ターラーさんが指摘されていましたが、まさにそうです。

方や森林の“まっすー”さん、この森林から発せられる情報もまた、“ 膨 大 な 情 報 量 ” なのです!!
また私の体験での、地平線まで続く稲田の、風にたなびく稲穂たちからの情報もまた “ 膨 大 な 情 報 量 ” なのでした。

風に揺れサワサワとする葉っぱが擦れる音、無数の鳥たちのさえずり、無数の木々、無数の枝と葉、
これらの総体である “ 膨 大 な 情 報 量 ” は、個人の《 顕 在 意 識 》で全て同時に捉えることは不可能なのです!

このような条件に、身心に不調を抱え限界に達した“心”が出会うと、左脳の顕在意識である“心”は容易に停止してしまうこととなります。

するとどうでしょう、何が起こるのでしょうか?!

そうです、今まで潜在意識下にあった “ 膨 大 な 意 識 ” が顕在意識にとって変わるようになり、
ジル・ボルト・テイラー博士やネドじゅんさんに言わせるなら、右脳が左脳にとって代わることがおこるのです。

すると例の、在るがままで絶対である絶対美の世界を見て、体験することが起こるのです!!


空海の十住心の第十 “ 秘 密 荘 厳 心 ”


     秘密荘厳心(大日心)


『 大日如来の自内証の法門で、真言宗の立場である。


大日の加持神力によって、この《さとり》に立てば、この世のありとあらゆるものが、大日如来の秘密の力で『 美しく“ 荘 厳 (かざら)” れてみえる 』のである。


この世の全ての存在の全てのものの内に、仏のあることをみる。というよりも、『 全てのものが “ 仏 ” そのものであると分かってくる 』のである。


それは、『 他に知らせることも出来ず、他から知ることも出来ない 』『 独りで “ さ と る ” ほかない 』のである。


これを “ さ と る ” ことが《 即 身 成 仏 》なのである。



いかがでしょうか? ネドじゅんさんが語った体験と同じとは言いませんが、似ているって思われませんか?!



現代と比較できない、釈尊の時代の心


ネドじゅんさんのYouTube動画の体験で、ワンネス体験も語られていました、あの表現ですと映像的に体験されたと解釈できます。


それと左脳停止を “ 自 動 思 考 ” の停止と表現されていました、この自動思考についてもネトじゅんさんは何故起こるのかを詳しく説明されていますが、概ね同意されます。


幼児の頃から20才前後まで、早朝から夕方まで、次々に《新しい》情報を詰め込まれていては、左脳と前頭前野と言語野は休むことなく働きそれはまさに《 自 動 》で新しい事象に対応するようになるまでに “ 訓 練 ” されてしまうのです。


それは、現代ではAIロボットに比することもできるほどです、翻って2,500年前の釈迦の時代はどのようだったのか?


ホワイト・ターラーさんは正念・正智を釈尊はあまり説いていないとされていましたが、私の推測としては、説く必要が無かったのではないのだろうか?ということです。


ほぼ教育などというものは、たぶんですが、超富裕階級しかうけられなかったのだと思います、であるのだから、一般的に大衆のマインドは超シンプルであり、余分な知識も持たず、“ 自 動 思 考 ” のごときはほぼ無いに等しかったのでは?と。


私の幼児~小学校時代を振り返ってみれば、自動思考が起き始めた一瞬を憶えています、自動的に脳がフル回転で勝手な思いを“言い始めた”んです。


その瞬間に、躓いて転んだ記憶があり、その瞬間に聴こえたのは、『適当に考えると怪我するよ!』でした、自分が思ったのかも知れませんが、良く憶えています。


そんなこともあって、端からみてボケ~っとしていてバカそうな子供的に思われていたと思います、実際なにか事があっても10秒は何も考えが浮かばず、全ての事が終わってから、ようやくあーだこーだと思考が始まる子供だったと思います。


半世紀前の子供たちはそんな感じだったことでしょう、勉強内容も今とは比較にならないほど少なかったはずです、釈尊の時代なら更に少なく、無いに等しいかったことは想像に難くないです。


釈尊の時代の人々で、教育をうけた人や生来知能の高かった人は、自ずと自動思考が育まれていたかも知れませんが、ほぼ全ての大衆は純真・純朴な人々であり、私の子供時代よりも更に、自動思考はゆるゆるでゆっくりと為されていたのでは?と想像されます。


そのようであったればこそ、お釈迦様の説話を聴いただけで、あっという間に覚って煩悩より解脱したのではないのでしょうか?!そうだったはずです。それでなければ説明がつきませんから。


この辺のことは、確かOSHOの本にもあったように記憶しています、釈尊の時代はマインドは現代人とは違っていたと、あったと思います。



ワンネスやプルシャとの合一体験!!


ネドじゅんさんは、左脳停止・右脳活性化が起きて直ぐ、頭にあった意識が胸に移動して、それから今までずっと胸から世界を見ている、のようなことを仰っていました。


このことは、《 自動思考・妄想 》というものが、一時的に停止する、禅で言うところの《見性》とは違うものと見なすべきです。


見性では、《正しい見る》《真実の自己》に目覚めるが、時間経過とともにその体験が失われます。


一方、継続的に左脳の自動思考が停止して、胸に自己意識が移動した場合は、時間経過で元に戻らないのですから、明らかに上記の見性とは違うことになります。


胸に自己意識が移動して、次に起こるのが《ワンネス体験》《プルシャ(純粋意識)との合一》です。


先ず注目すべきは《 胸の意識 》です、これは仙道で《 黄金の赤児 》と言われているものと同一のものではないでしょうか?私はそのように考えています、またラーマナ・マハリシの言う “ ハ ー ト ” も同じことを言っていると思われます。


2つの道


この胸の意識は個の意識です、この個の肉体にある意識は、“何もしない” “ただ在る” ことによって、《空間・純粋意識》であるプルシャへと、個の殻が割れて消えて、合一に達します、これが一つの道です、このとき肉体感覚・意識の全てが一時的に滅してしまいます、これは内なる道です。


この体験では、熟睡時のように、目覚めてから良く眠ったというような記憶意識が生じません、全く記憶が残らないのです、この体験はラーマナ・マハリシが17歳~20歳ころのサマディー体験で何度か起こったと言います。またこの体験では肉体が次元上昇して物理法則を超越します。


またこれは九次第禅定の最後の “ 滅 受 想 定 ”を思わせます。


もう一つの道は、上昇の道・・・

《 陽神・意生身 》を得て、頭頂を抜けて出神し、色身の世界で自在力を得て発揮します、外なる道です。


どちらを通過しても、最後はニルバーナへ至ると思います、たぶん。


そして、胸へ移動した個我は、心の機能を離れていて脳の心とは距離があります。


ワンネスやプルシャとの合一は、何もしない(ただ在る)ことで、自動的かつ突発的に体験が始まりそして起こります。


この “さとり体験 ” が起こった後で顕著なのが、全体意識と一つである体験(ワンネス)です。


ワンネスとかを数回経たのち、今度は一時的な体験ではなくて、日常の中での《個人→全体←個人》的な、テレパシーや平等意識にたった慈悲・愛の体験などが体験されてくるでしょう。

これはYouTube動画でネドじゅんさんの体験として語っておられたと思います。



心からの解脱(心解脱)なのか?


以上から、私は《心の機能(頭)からの解放》である意識の胸への移動を、今のところ《 心 解 脱 》ととらえています。


煩悩の大元である胸の我執、ここが善(白業)一色になれば、煩悩は滅して生起しなくなります、これが一時的なもので終わるかそれとも永続的なものとなるのかは、心の機能がもう一度復活するかしないかに掛かってくるのだと思います。


原始仏典にも《 退法阿羅漢 》問題が書かれていて、不還果や阿羅漢果に至っても再び煩悩の生起をみることもあるようです。


また《智慧》による解脱である《慧解脱》とはどの段階なのか?またその智慧とは何であるのか?現在思案中なのですが。

この辺りは仏典から納得の行くものがま見つからないため、心解脱との関係性なども含めて未だはっきりと断言して説明をできません、よってまだまだ多くの学びが必要のようです。