短編小説「小説家、小説を書く」 | もしも文芸部の男子マネージャーが、クーンツの「ベストセラー小説の書き方」を読んだら?

短編小説「小説家、小説を書く」

今日も、いいお天気で晴れ空が広がっています。

気のせいなのか、何となく粉っぽい感じです。💦 花粉、黄砂。この季節、粉の時期でもあります。

昨日はホワイトデー。バレンタインにチョコをくれたひとへの、お返しの日です。クッキーやキャンデーやマシュマロ。でも、バレンタインほどには盛り上がりませんね。

もう一工夫が必要でしょうか。

 

久々の小説ブログです。神戸新聞文芸の応募要領がかわった最初の作品です。原稿用紙10枚→7枚に。

物語の構成に苦慮しました。

 

お読みいただければ幸いです。

 

<本文>

小説家、小説を書く

                                 黒川文

 

 わたしは大陸中央に位置するキンザニア共和国という発展途上国で神官をしていた。この国はトイ族、ザラ族、スー族、ニン族、テン族、ドー族が主要な民族で、これらに属さない二千数百もの部族からなっている。
 一つ一つの部族は小さかったが、それぞれに固有の文化を持ち、かつ、それに誇りを持っていた。本来ならバラバラの国家になるはずだし、現に、古代文明の時代にはそれぞれがムラ国家を形成し、互いにいがみ合っていたと言われている。
 独立国家共同体と言った、現在の国家を形成するに至ったのは、十八世紀から今世紀まで、植民地支配していた大英帝国の存在があったからに他ならない。
 人々は互いに別の言語を話していたが、別のムラとのやり取りでは、英語が共通語として機能していた。
 

 
 独自の文化を誇ってはいたものの、文字を持つ部族は一割にも満たなかった。三十年前までイギリスの植民地だったせいで英語が公用語になってはいたが、部族ごとの訛りは強く、単語を並べるだけで、満足に話せるものは少数派だった。識字率は公用語の英語で一パーセント未満に過ぎなかった。文字を持つ部族でも、それで読み書きが出来るのは、せいぜい、トイ族の神官だけという有様だった。
 主な文字はトイ族にもたくさんある方言の中でもウラー州で使われるウラー語の文字を使う人口が一番多かった。
 
 わたしは前の大統領が亡くなったお陰でもらうことが出来た服喪期間の休暇を生かして、前から書き上げたかった小説を完成させた。構想から一年越しのプロジェクトである。A4用紙で三〇〇枚にもなる長編純文学作品だった。
 
 わたしはそれを本の形にしたいと考え、この国唯一の出版機関である国営の印刷局に持ち込んだ。
「だんな。ウラー語の本なんて売れませんや。一体どこの誰が読めると言うんです? 英語で書き直して下さい。こちらで挿絵をつけて絵本にして出版してみます」
 書籍課長の男はずれたメガネを指先でちょいと直しながらそんなことを言った。そんなことを言われ、わたしは少し憮然とする思いだった。ウラー語こそ、わが民族の誇りではないのか? でも、確かに一理はあった。ウラー語で出版したのでは、他の民族の手前、示しかつかないし、それに、識字率の問題が立ちはだかった。せいぜい、読めるのは数百人にもおよばないだろう。その中で純文学を読む人となるとさらに、減少が見込まれた。
 しかし、英語と言うところに少し引っ掛かるものを覚えた。
 もう植民地でも何でもない。共和国として独立してすでに三十年にもなろうとしているのだ。どうして、イギリスの言語に拘泥するのか。これを機会に民族の心意気を示すべきではないのか。

 


 
 わたしは、忸怩たる思いだった。
 その日から、……もう、服喪期間の休暇はなくなってしまっていた。夜になると、わたしは、書きあげた原稿をまたもや、書斎に持ち込み、辞書を引き引き、英語に翻訳をはじめた。
 
 物語は文字の読めない部族で起こった悲恋を扱ったものだった。
 主人公の青年は、想いを寄せる少女と接点を見出せずにいた。恋文だけが唯一の通信手段だった。文字を読めない人ばかりの村だった。もし、途中で読まれても内容は誰にもわからない。しかし、あの少女に、想いは伝わるのだろうか? 青年は疑念を抱いた。それより以前に恋文があの少女の手元まで届いているのだろうか?
 途中、何人もの下僕や老婆の手を経るのである。「いかがわしい」と、その一言でゴミとして竈の焚き付けに使われる可能性もあった。
 
 実の所、この物語はわたしの実体験を元にしたものだった。神官は妻帯禁止で、結婚はできない。だから、好きになった少女とも永遠に結ばれることはなかった。神官の家は代々、養子を取るかして、幼少時から、儀式を覚え、式典のときに読み上げる祭文の作成のために、教養を積んできた。
 トイ族の文字はもちろんのこと、古代文字まで暗記させられた。
 その少女は、十三歳で隣村の放牧をしている男の家に嫁に行った。わたしは、祝福を授ける義父である神官の隣で、供え物を持ち、彼女の旅立ちを見送ったのだ。彼女の目は涼やかだった。どんな相手なのかまだ知らされてもいなかった。それを達観していたのが、正に悲恋だった。
 

 

 
 英文に翻訳され、国の一パーセントを占める識字層に読まれる運びとなった。わたしは、印刷局の課長に恩義を感じた。
 これまで自分の書いた文学作品が一目に触れるなど、これまで、一度たりとてありはしなかったのだから。
 
 唯一の例外は神官として、式典の途中で読み上げるトイ語の祭文くらいのものだった。それすら、すでに、古代文字と言ってもいいほどの代物で、現役で意味を解する民など一パーセントの中でもさらに、教養のある知的階級に限られたのだ。
 
 物語が評判になるにつけ、是非とも読みたいという便りが印刷局に届くようになったと課長は言っていた。
 識字層のボランティアの青年がその役を買って出てくれ、高等教育機関の学生たちが、それぞれ「本」を携え、国中の村々を回ってくれた。
 英語で講義する若者たちに、村人が怒り出した。
「文字が読めねえって、いつの時代の話だよ! 俺っちだって英語くらいわかるんだぜ」
 

 

 
 独自の文字を持たないくせに、文盲扱いされているところに突っかかられた。後で青年たちから、小説の朗読会の反応を聞き、わたしは、複雑な気持ちになった。
 識字率の問題で、あの物語が村人たちのプライドをひどく傷つけてしまったことを。
 いや、あの作品が起爆剤となり、村々の識字率を引き上げ、結果として皆の怒りをかったのだ。了
 

 

<あとがき>

応募要領がかわったのは2018年のことでした。

選者が楠見朋彦先生から、三浦暁子先生にバトンタッチされ、その際に、原稿枚数が減らされてしまいました。

最初の頃は12枚だったのです。その後、10枚になり、7枚に。

それなりに、起承転結をつけて文章を作成していました。

7枚だと、構成を作るにかなり厳しい物がありました。

 

小説を書くって、どんなことなのだろう?

わたしは原点に立ち返るべく、考えました。そのときに、思いついたのが、本作品です。💦