ゲホッ…ゲホ……

部屋を出た途端咳き込んだ。慌てて自分の部屋に戻る。姉さんに聞こえないように枕に顔を押し付け咳が治るのを待つ。
漸く咳が治り顔を上げると枕に血が付いていた。


「……!」


初めて喀血した。ここのところ熱っぽく咳が続いていたが、無理やり風邪だと思い込もうとしていた。
禍々しい真っ赤な鮮血が意味することから目を背けたくて目を閉じた。

隠さなくてはいけない。公爵に病いだと気付かれたら身請け話が流れてしまうかもしれない。
俺の脳裏に先程見た涙を浮かべて喜ぶ姉さんの顔が浮かんだ。

何としても姉さんをムーランルージュから自由にしなきゃな…

枕を掴んでいた手に力が入る。握り締めた拳に額を当て俺はこの事を隠す決意をした。
血で汚れた枕カバーを始末すると俺は彼の元を向かった。





診療所へ行くと彼は俺を待っていてくれた。診療所に着くや否や、俺は風邪が長引いているからと咳止めと解熱の薬を彼から貰った。とりあえず薬を飲む。薬を飲む俺を見ながら彼はしきりに診察をさせろと言ってくる。彼を宥めつつ俺は彼に身を寄せた。


「それより…さっき姉さんには話したからさ…」


「そうか…。」


ベッドに寝そべった彼の胸に甘えるように頭を乗せた。
頬から伝わる彼の温もりは一週間後には永遠に失われるものだ。彼の大きな手で優しく髪を撫でられると、もうすぐこの男から離れなければならないという現実に心が押し潰されそうになる。
離れたくないと、独りになりたくないと心が泣き叫んでる。

彼は愛しむように俺の髪を弄び、頬を撫でる。
涙をぐっと堪え彼の手の感触を忘れないように心に刻んだ。
体調が思わしくない中、昼間から公爵と淫らな時間を過ごし、姉さんに身請けの話しもした俺は疲れていた。
規則正しい彼の鼓動の音を聞きながら優しい手の心地良さを味わっていると次第に目蓋が重くなってきた。


「ゆっくりしていけるんだろ?少し眠っていけ…」


彼の囁く声が耳にするすると入ってきた。彼の傍らは本当に心地良かった。俺は小さく頷くとゆっくりと目を閉じた。






 

柔らかな陽の光が降り注ぐ穏やかな朝だった。旅立ちには最適の天気だった。
新しい生活には艶やかなドレスも化粧品も要らないと、姉さんは身の廻りの品だけを鞄に詰め込んだ。
俺にしても、公爵が身一つで来ればよいと言われていたので、身の廻りのものだけを詰めたが、彼に買ってもらった洗い晒しのシャツだけはこっそりと鞄の奥に仕舞った。
俺と姉さんは僅かばかりの手荷物だけを持ってお互いの部屋を出た。


館長がムーランルージュの扉を開け、俺は姉さんを伴ってムーランルージュの外に出た。

そこには公爵の乗った馬車と何故かジジが待っていた。

ジジは俺の姿を見とめると抱きついて来た。


「ソギ!お医者さんは忙しいから私が頼まれて、ソギのお姉さんをお迎えに来たの!」


ジジが元気良く告げる。
姉さんにはパリに帰る公爵を見送るから先に診療所に行っていてくれと言ってあった。彼が姉さんを迎えに来るものとばかり思っていた俺は、現れなかった彼に寂しさが込み上げてくる。

もう二度と会えないのに…

心の中で恨み言を呟いたが、会わない方がいいのかもしれない。一人で旅立つと決めたのは俺自身だ。
未練がましい自分の思いを振り切ると、何も知らないジジの頭を撫で、そして姉さんを抱き締めた。
きちんと別れを告げられないことに哀しさと申し訳なさで胸は押し潰されそうだが、そんなことはおくびにも出さずにただ黙って姉さんを抱き締めた。


「ソギどうしたの?まるでお別れみたいな顔して…」


姉さんは俺の腕の中でやんわりと微笑んだ。
ずっと一緒に生きてきた優しい姉さん…


「なんでもないよ。ただ自由になれたのが嬉しくて…」


俺は呟きながら館長を見ると、館長は黙ってそんな俺たちを見守っていた。やっとの思いで姉さんから身体を離すと、俺は館長に僅かに頷いて公爵の馬車に向かって歩を進めた。

もう二度と戻れない街…

ムーランルージュ…

姉さん…

振り返ったら泣き出してしまいそうだった。
俺は無言で馬車に乗り込んだ。


「早く馬車を出してください。」


震える声で公爵に請うた。
公爵が馬車を出すように御者に合図した。


「…くっ……」


いけないと思いながらも嗚咽が漏れた。
愛しい人たちの顔が走馬燈のように脳裏をよぎった。
俺は涙を堪え心の中でこの街の愛おしいものすべてに別れを告げた。