「なっ…?何をしてるんだよ!やめろよ!」


俺の為にこんなことをして欲しくない。
あまりの事に彼に向かって大きな声を出していた。
彼は俺の言葉を無視して頭を下げたままだ。
唇を噛み締め口を閉ざしていると、いきなり咳込んでしまった。

ゲホッ…ゲホッ…

俺の咳に彼は顔を上げた。心配そうに顔を歪める。彼は公爵に顔を向け言った。


「咳をしているだろう?…ソギの治療をさせて欲しい。」


公爵は鼻で笑うと彼に言った。


「たかだか咳くらいで…船の中にも医者はいる。君の出番はない。」


公爵の言葉に彼は膝を折ったままだが反論した。


「診察をさせてくれなかったが、俺の見立てが正しければ、ソギには安静が必要だ。長い船旅の末に慣れない土地に行くなんて自殺行為だと思う。」


「風邪くらい誰でも引く。大袈裟過ぎるだろう。」


公爵は聞く耳を持たない。


「何故君はそんなにしてまでソギを引き止める?
君はソギの姉と暮らすんだろう?
それにソギは自分の意志で私とパリへ行くと決めたんだ。
ソギ…彼に言ってやりなさい。自分はパリに行くんだと。」


公爵に彼を拒絶しろと言われても、土下座までしてくれた彼にそんな言葉は言えなかった。
公爵は俺の肩を掴んで、頭を下げる彼を冷淡に見下ろしながら強引に歩き出した。

本当は行きたくない。彼とも姉さんとも離れたくない。
例え傷ついても、姉さんを傷つけても彼のそばに居たかった。
けれども、ここで行かなければ姉さんの身請けが取り消されてしまう。
俺は後ろ髪を引かれる思いで公爵と一緒に歩き出した。
すると、また激しい咳に襲われた。
止めようと焦れば焦る程、咳は止まらない。
苦しさに耐え切れず膝を折る。地面にしゃがみ込み、何とか公爵に気付かれないように慌ててハンカチで口を押さえた。白いハンカチに真っ赤な血が滲む。


「ソギ…!」


俺が咳込んだのを見た彼が駆け寄って来た。
肩を掴まれ顔を覗き込んできた彼から顔を背けた。


「ソギ…君は……それは…?」


公爵が俺を見下ろしていた。血の滲んだハンカチと俺の顔を驚きに見開い目で交互に見ている。見詰め返したものの返事は出来なかった。公爵の視線で唇の端を指で触れた。そこには拭いきれなかった血が付いていた。

俺の代わりに彼が答えた。


「…ソギは…多分…胸の病いだ。それもかなり進行していると思う。」


彼の声は絞り出すかのような掠れた声だった。


「このまま船に乗せればソギが死ぬと言うのかね?」


公爵が問い返した。


「このまま連れて行けば多分そうなる…。だが、今治療に専念すれば間に合うかもしれない。」


彼は俺を抱き支えながら公爵に言った。彼の言葉を聞きながら、自分はそこまで悪かったのかとぼんやりと思った。

彼の言葉を最後に暫くの間、誰も言葉を発しなかった。港の喧騒の中、俺たちの周りだけ静謐な空気が漂う。

病いで、連れて行けば死ぬかもしれないような俺をどうするのか…?
パリに連れて行けないならムーランルージュに戻されるのだろうか?
姉さんも戻されてしまうのか?
公爵がどうするのか不安だった。

口火を切ったのは意外にも公爵の後ろに控えていたロベールだった。


「旦那様。病人などを本国に連れ帰っても何も良いことはありません。
このような男は打ち捨てるのが、よろしいかと思います。」


ロベールの冷静な声が三人の間の沈黙を破った。いつも俺に冷たく当たるロベールが初めて俺の為に言葉を発した気がした。
公爵はロベールの言葉を考えているようだった。


タラップの上では乗船を即す声が聞こえた。

公爵は俺と彼を交互に見て彼に向かって問いかけた。


「君は確かソギの姉の恋人だったろう?姉の他にソギも面倒を見るというのかね?」


俺の顔を見つめながら彼は公爵に答えた。


「ああ…。俺は…ソギの治療をしたいんだ。それに…俺は…ソギを………」


彼は言葉を切った。その先の言葉が聞こえるようで、そんな彼を俺はせつなく見つめ返した。


「君は……」


公爵はその先を問いかけようとしたようだが、結局、言葉を飲み込んだ。

公爵は踵を返すとロベールを従えタラップに一歩を踏み出した。振り返った公爵が俺に告げた。

「ソギ…君を置いていく事にしよう。その彼に治療してもらいなさい。
私は治癒されることを祈ってあげよう。
……どうも私は…君が私の目の前で死ぬかもしれないという事実を受け入れられないくらいには君を愛しているようだ…。」


「…アルベール様……。」


思わず公爵の名を呼んでいた。


「君は上手くやったね…。私から金を引き出し、姉を連れあの娼館から自由になった…。」


自嘲した公爵は俺に彼らしくない細やかな嫌味を口にした。


「……。すみません。」


謝罪の言葉しか出て来なかった。


「まったく…君は……」


公爵の呟きは波音にかき消された。一瞬、その瞳に慈愛の光を宿した公爵は、その呟きを最後まで俺に聞かせることなくタラップを今度は振り返らずに登って行った。

ここに残れるとわかり気が緩んだのか、眩暈がした。強張らせていた身体が倒れてしまいそうで彼の胸に預ける。発熱している身体は怠くて鉛のように重い。


「よかった…」


一言呟くと彼は俺の身体きつく抱き締めた。


「…来て…くれて…嬉しかった…」


彼の腕の中で失いそうな意識を強引に繋ぎ止め彼に言った。病いが深刻でも、彼と少しでも一緒にいられるなら、それでよかった。彼の傍らが自分の死に場所なら、こんなに嬉しい事はない。

彼が俺の名を呼んでいる声を聞きながら、俺は意識を失っていた。