雨は激しさを増していた。馬上からの景色は雨に煙り樹々の緑も霞んで見えた。
雨に打たれ冷え切った身体で馬上で揺られているとふらついて落ちてしまいそうになる。
慣れない馬に難儀したけれども街へ行けば彼に会えると、その思いだけを糧に気持ちを奮い立たせ、街への道を急いだ。

街に入り、市場を横切っても人は疎らだった。激しい雨に皆、建物の中にいるのだろう。外を出歩いている物好きは俺ぐらいのものだった。
以前訪れたことのあった彼の診療所の近くの水呑場に馬を繋ぎ、診療所の扉を叩いた。




以前、姉さんが風邪を拗らせ、なかなか熱が下がらなかったことがあった。館長が金に物を言わせて連れて来た怪しい医者に診せても埒はあかなかった。
俺たちは診てくれるまともな医者を探すのにも困る有様だった。汚らわしいを娼婦を診る気はないとはっきり言う医者もいた。
そんな折、誰でも分け隔て無く診てくれる医者がいるという評判が耳に入った。藁にもすがる思いで訪ねたのが彼の診療所だった。

診察室に入ると、先日街を二人で散歩している時に知り合った人だった。俺と姉さんを見て彼は嬉しそうに笑いかけてくれた。


「まさか患者が君たちだとは思わなかったよ。
…ん?ジミンって名前なのか?」


カルテにある姉さんの名前を見た彼は呟いた。


「韓国人なのか…?母国は俺と同じなんだな…」


誰に言うでもなく彼は呟いた。俺も姉さんも自分たちのルーツが何処にあるかなど考えたこともなかった。曖昧に笑う俺たちを見て答えを諦めた彼は姉さんを診ることにしたようだ。
苦しげな姉さんに直ぐに楽になるからと励ましながら診療する彼を俺は見つめていた。彼に向かって胸を開けることを恥ずかしがる姉さんは少女のように顔を赤らめていた。

彼の治療の甲斐があり姉さんは無事に回復した。御礼をかねて食事に誘うと彼は喜んで招待を受けてくれた。
街でちょっと評判の高級な店で向かい合って席に着き、何気ない会話を交わしながらの三人での食事は本当に楽しかった。
一度きりの出会いの筈がこうして異国の地で知り合えたのも何かの縁だと、それ以来彼は俺たち姉弟と親しく接してくれるようになった。
お互いだけだった俺と姉さんは彼と知り合えたことで閉ざされ淀んだ世界から抜け出したような気がしていた。木々を優しく揺らす風のような彼に俺たちは夢中になった。




何回か診療所の扉を叩いたが返事は無かった。もうすぐ夜が訪れようとしていた。分厚い雨雲が更に濃い灰色に沈む。
公爵の館から逃げ出してきた俺はムーランルージュに帰る訳にも行かず、診療所の扉の前でしゃがみ込むしかなかった。
空を見上げると激しさを増した雨は幾万もの矢のように俺の顔に降りかかる。ここしか行くあてのない俺は顔を俯け、膝を抱えて彼の帰りを待った。

  


「…おい!…ソギだろ?どうしたんだ?
こんな所で蹲って……」


突然、肩を揺すぶられた。
膝に埋めていた顔を上げると待ち焦がれた彼が俺の顔を覗き込んでいた。


「…あっ……雨宿りしようと思って……」


いきなり目の前に現れた彼に驚いた俺は下手な言い訳を口にした。
ずぶ濡れの俺の様子を見た彼はそんな言い訳も耳に入ってないようだった。


「お前ずぶ濡れじゃないか!とにかく中に入れ。」


彼は俺の腕を掴み扉の前から立たすと鍵を開け、何も聞かずに俺を診療所に中に入れてくれた。
診察室を通り抜け、奥の自宅にしている部屋に彼はさっさと入っていった。ついて行っていいものかと部屋の入り口で戸惑っていると彼が声を掛けてきた。


「ほら、そんなとこにつっ立ってないで入れ。早く濡れた服を脱いじまえ。風邪引くぞ。


彼も雨に濡れてずぶ濡れだった。そのまま浴室に入るとタオルで自分の髪を拭きながら出て来て、もう片方の手に持っていたタオルを俺に向けて投げて来た。
彼が投げて寄越したタオルを胸の前で受け止めると、自分の格好の酷さが目に入った。
馬丁に引き千切られたシャツは濡れて身体に貼り着き、着ている意味はない状態だった。髪からは水滴がポタポタと落ちて彼の家に水溜りを作りそうだ。慌ててシャツを脱ぎ捨てタオルで身体を拭く。ぐっしょりと濡れた靴も脱いだ。温かみのある木の床の上で素足なると触れている部分が心地良かった。
ちらりと彼を見ると濡れた髪を少し乱暴にわしわしと拭いている。雨に濡れた服の下、肩の筋肉の線が浮き出た彼の姿は俺とは違い男らしく、その姿を見た途端になんだか気恥ずかしくなり背中を向けた。

目のやり場に困り彼の部屋に視線を向けた。落ち着いた濃茶の木の机の上には読みかけの本が開かれていた。並びには同じ色の本棚が置かれ、そこには見たこともない文字で書かれた本が整然と並んでいた。壁際にある整えられたベッドの上で枕が少し乱れて置かれているのも彼の普段の生活を垣間見るようだ。
初めて入った彼の部屋に少し浮き立ちキョロキョロと視線を動かす。シンプルな家具がすっきりと置かれた部屋はとても彼らしかった。

ふと見るとベッドサイドのテーブルには写真が飾られていた。

彼の家族だろうか?

彼によく似た初老の男性と寄り添うように立つ女性の写真、その前には柔和な笑顔を浮かべた彼と年の頃が同じ位の男性が中腰でカメラを見ていた。
当たり前のことなのに自分の知らない家族というものを彼が持っていることが不思議だった。



濡れたシャツを脱ぎ捨てた彼は上半身裸のまま慣れた手つきで暖炉に薪を焼べ出した。薪に火がつくと部屋がじんわりと暖まってくる。燃える炎に誘われるように俺は暖炉に近づいた。
彼は燃える薪をぼんやりと見ていた。俺も彼の横に立ち、暫く並んで炎を見ていた。彼が呟いた。


「昔から、炎を見るのが好きなんだ。不規則に揺らめく様が面白くてな。」


なんとなく彼らしいと思った。俺は黙って頷いた。


「お前は…炎みたいだな……」


思いがけない彼の言葉に俺は顔を上げた。


「お前は…ゆらゆらと掴みどころがないのに…それでいて熱く燃えてるようなところがあるだろ…?」


彼は俺にそう言って笑いかけてくる。何でこの人は他の誰も言わなかったことを言ってくれるのだろう。誰も見ようとしなかった俺の内面に自然に触れてくる。
照れて俯いた俺の髪をいつものようにわしわしと撫でた後、彼は診療所にあった洗い晒しのシーツを俺に羽織らせた。そのまま夕食を作ると言って暖炉の火に鍋を掛けた。

薪がパチパチと爆ぜる音だけが静かな部屋で聞こえていた。
チキンと野菜を煮ただけのスープとパンだけの食事。彼の人柄そのままのようなシンプルな料理だった。それでも公爵の館で供される豪華な食事より何倍も美味しく感じた。冷えた身体に染み渡るような温かいスープを俺は黙って口に運んだ。彼が口を開いた。


「お前、暫く見かけなかったな。何処に行ってたんだ?」


彼の問い掛けに身体がピクリと反応した。自分の身に降りかかった奇禍が鮮明に目の前に蘇る。

馬丁の荒い息遣い…
ロベールの冷たい目…

気が付けば顔を俯けていた。どうしても話す事が出来なかった。拳を握りしめ口を固く閉じた。


「ムーランルージュにも居なかっただろ?ジジに聞いたら暫く居なくなるみたいなことを言っていたと聞いてな。心配してたんだ。」


「…ごめん。」


押しかけて来たようなものなのに謝ることしか出来なかった。公爵の館での人に言えない淫らな仕事の事も、悲しくて情けない出来事も彼には知られたくなかった。


「……だが…ここに居たってことは…
…お前はムーランルージュに戻れないってことか?」


俺は黙って頷いた。俺の唯一の居場所に帰れないということを今更ながら彼の言葉で自覚した。闇雲に逃げ出して来た自分に溜め息が溢れた。


「そうか…なら、暫くここに居ればいい。」


俺の様子に何かを感じ取ってくれた彼はそれだけ言うと俺に何も聞かずにただスープを口に運んでいた。



部屋は壁掛け時計が時を刻む音と、たまに爆ぜる薪の音がするだけの静寂に包まれていた。夜も更け、シーツに包まってベッドの端に横たわった。
着ていた物は全て脱がされて暖炉の前に置かれた椅子に掛かっている。格好など気にしない彼はあまり服を持っていなかった。貸してやれる服が無くて悪いなと呟く彼に、俺は首を横に振って大丈夫だと答えた。

けれども…ベッドは一つしかない。

シーツだけを纏って彼と同じベッドで眠ることになる。心臓の音が身体の中で鳴り響いていた。


「もっとこっちに来ないと落ちるぞ。」


背中からの彼の声に更に心臓が跳ね上がる。

仕事で何度も男と同衾してきた。彼は俺をそんな風に見ていないのに、まるで初めての時のように心臓の高鳴りは治らない。
身体は冷えてるが顔が火照りだしたのがわかる。赤くなっているであろう顔を彼に見せれず、振り返ることも出来ずに小さな声で呟いた。


「だ…大丈夫。俺、寝相いいから。」


シーツの下で震える身体を自分で抱き締めた。


「寒いんだろ?震えてるぞ。いいからこっちに来い。」


身体の前に逞しい腕が回ってきたかと思うと強引に背中から抱き寄せられた。抱き込まれた背中に感じる彼の温もりに居た堪れない気持ちになるが、それでも心地良い温もりが冷え切った身体だけでなく心も温めてくれる。

今までなら、多少のことでは傷つくこともなかった。固く閉ざした心は簡単なことでは挫けないだけの強さも手に入れた。けれども、この人を好きになり、その人柄に触れる度に物のように扱われ穢れた自分の身体を悲しく感じるようになった。
逃げ込んで来た俺を、何の屈託もなく受け入れてくれる彼に胸が苦しくなる。
気が付けば彼は俺を抱き締めたまま寝息を立てていた。
耳の後ろに僅かに彼の寝息を感じる。

眠れない…

夜も深まっているのに、辛い出来事に苛まれた身体は疲れ切っているのに、訪れてよい眠りは訪れてくれない。
シーツを纏っているとはいえ、裸で彼に抱き締められてベッドにいる状況はどうしても俺を眠らせてくれない。

人の気も知らないで…

俺の逡巡に気付くはずもない彼はぐっすりと眠っていた。
一日中、患者の間を走り回ってたのだろう。心地良い疲れが彼を深い眠りに誘ったようだ。

眠ることを諦めた俺は腕の中で彼に向き直った。

閉じられた切れ長の目は漆黒の睫毛に縁取られている。思わず指で睫毛をなぞっていた。起こさないようにゆっくり触る。そのままスッと通った鼻筋に指を滑らせた。薄っすらと開いた寝息を立てる唇にも触れてみた。
いつまでも見ていたい寝顔だった。馬丁に犯されたことも、ロベールの冷たい目に傷ついたことも、この寝顔を見ていたら癒される思いだった。


姉さんごめん…

多分、俺は今、姉さんが求めて止まない腕の中にいる。こんなにも間近で彼の寝顔を見る幸せを噛み締めている。そんな自分が申し訳なくて、心の中で姉さんに謝った。
謝りながらも彼の腕の中で味わう至福の時は、頭に浮かんだ姉さんの顔から目を背けさせた。

シーツ一枚隔てただけの彼の肌からの温もりが俺から理性を奪っていった。

二人だけしかいない静寂の空間は悪魔のように彼に触れてしまえと囁く。 

彼の顔をなぞっていた手で彼の頬を柔らかく包んだ。

身体を伸び上がらせ羽根のように軽いキスをした。

彼は幸いにも目を覚まさなかった。

何故だか涙が一筋溢れた。

彼の纏う優しい空気に包まれながら俺はいつまでも彼の寝顔を見つめていた。