この家に来て初めての休日だった。
ジョンインは婚約者とのデートだと言って出掛けていった。
会長の処に来て以来、
友人を作ることもしなかったムギョルは、
特に誰かに会うことも、することもなく、
キッチンへ行きコーヒーメーカーに残っていたコーヒーをカップに注いだ。
コーヒーを飲んでいると、
ガンペを思い出す。
気が付けば、このコーヒーはガンペが好きだったモカのようだ。
ムギョルが淹れるコーヒーが美味いと言って
いつも淹れてくれと強請られた。
ガンペと過ごした何気ない時間が懐かしく、そして切ない。
また、涙が溢れそうになり、
ムギョルは顔を横に振り、立ち上がった。
「ティンガ!散歩に行くぞ!」
気分を変えたいとムギョルはティンガに声を掛けた。
眠っていたティンガが、ムギョルの声に反応して駆け寄ってきた。
ティンガの頭を撫でながらリードを付けたムギョルは
秋の日差しの中、ジョンインの家を出ると、
家の前の坂を駆け下りていった。
ジョンインがメリとのデートを終えて帰宅したのは、
夜の10時を回っていた。
リビングではない所からの僅かに聞こえる音にジョンインは耳を傾けた。
オーディオルームを覗くと
ビデオが流れたまま、
ソファでムギョルがうたた寝をしていた。
テレビ画面に映っているのは、
この前、話をしたスタだった。
映画を見ていたのかと思った矢先、
画面が変わり、そこにはガンペが映っていた。
よくよくムギョルの寝顔を見ると滑らかな頬には涙の跡があった。
ジョンインは、切ないような気持ちになった。
考えてみれば、今日、この家でムギョルは一人だった。
ティンガだけを相手に
ガンペを思い出すなという方が無理がある。
一人にしてしまったことをジョンインは悔いた。
深く寝入っているムギョルは起きそうもなく、
仕方なく、ジョンインはムギョルのカラダの下に腕を差し入れた。
抱き上げたカラダは身長の割には軽く、
部屋のベッドに何とか運ぶことが出来そうだった。
寝入った幼子をベッドに運ぶ父親のようだと
ムギョルを抱き上げ、歩きながらジョンインは苦笑した。
心地良く揺れるカラダが
ガンペがベッドに運んでくれていると夢の中のムギョルに思わせていた。
眠りながらも、抱いてくれている胸に頬を擦り寄せたムギョルは幸せな夢の中にいた。
朝、目覚めるとムギョルは自分のベッドで寝ていた。
オーディオルームでDVDを見ていたような気がする。
何時、ここに移動したのかわからないまま、
ムギョルは水を飲もうとダイニングに向かった。
「おはようございます。」
相変わらずの爽やかな挨拶をするジョンインがいた。
今日は、シンプルなTシャツにジャケットを羽織り、
ジーンズというラフな姿だった。
「朝食を食べたら、出掛けませんか?
ムギョルさんと、それにティンガにも気晴らしが必要でしょう?」
ムギョルは訝しげにジョンインの顔を見た。
「なんであんたと出掛けなきゃいけない?
俺は出掛けたくない。」
ムギョルはさも嫌だというように首を振った。
ジョンインは、ティンガを指差しながらムギョルに言った。
「ティンガは大型犬です。
たまには、思い切り走らせてやった方がいいのでは?
ここに来てから散歩もたいして行ってやってないようですし、
貴方も少しカラダを動かせば、
食事も進むでしょう。」
ムギョルは、ティンガを見た。
確かに、ガンペが死んでからムギョルは引きこもりがちで、
ティンガには可哀想なことをしてると思っていた。
昨日も、散歩に出たものの大通りを往復したに過ぎなかった。
ティンガのことを持ち出されると
ムギョルも異を唱えることは出来なかった。
「わかったよ。出掛けるよ。
…で、何処へ行くつもり?」
二人と一匹は、ジョンインの車で
西海に向かっていた。
ソウルから二時間
着いた浜は小さいが遠浅の海と砂浜が広がっていた。
車のドアを開けてやると
飛び出したティンガが砂浜を一目散に駆けて行った。
元気一杯のティンガにムギョルの顔が綻んだ。
「連れて来てよかった。」
ムギョルは駆け回るティンガを目で追いながら呟いた。
隣に立ったジョンインは同じ言葉を心の中で呟いていた。
笑顔とは言わないまでも、
ムギョルの表情はとても柔らかく、
それはジョンインが今まで見たことのないものだった。
砂浜へ二人は降りて行った。
ムギョルはスニーカーを脱ぎ、
波打ち際を歩き出した。
自分の足元を見ながら歩くムギョルの頬を風が緩やかに触れていく。
バリみたいだ…。
ムギョルは自分を包む優しい思い出の中にいた。
ふんわりと微笑むムギョルを見ながら、
斜め後ろからゆっくりとジョンインは歩いていた。
悲しい結末だったが、幸せだった時間はムギョルの中に今でも鮮やかに残っているだろう。
幸せの残滓であっても、
今のムギョルをきっと助けるだろうとジョンインは思っていた。
その時、ティンガが横からムギョルに飛び付いた。
バランスを崩したムギョルは、波間に尻餅をついてしまった。
「…!大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄ったジョンインを
胸元に手をやっていたムギョルが茫然と見上げた。
「どうしよう…」
「濡れてしまいましたね。
大丈夫ですよ。タオルは車の中にあります。」
冷静に返すジョンインにムギョルが呟いた。
「…ガムランボールが…無い…
ガンペがくれた…ガムランボールを落としちゃった…」
「…えっ?」
「ティンガに抱きつかれた時、胸元を滑っていく感覚があったんだ。
海に落としちゃうなんて…」
波間に座り込むムギョルに、
ジョンインが強い口調で言った。
「大事なものなんでしょう?!
ならば、そんな風に座り込んでないで探しましょう!
まだ、日があるうちは探せます!」
ジョンインの言葉に、我に返ったムギョルは慌てて立ち上がった。
「貴方がいつもつけている銀色のボールですよね?
私はこの辺りを探しますから、
ムギョルさんはそっちを見てください!」
ジョンインに指図され、ムギョルはこくこくと頷き水の底の砂の上を探り出した。ジャケットとデッキシューズを脱ぎ、
ジーンズの裾を捲ったジョンインも水の中に入り水底に手を滑らせた。
遠浅とはいえ、やはり海の流れはそれなりにありガムランボールはなかなか見つからなかった。
ムギョルの目は涙に潤んでいた。
零れそうな涙を手の甲で拭い、必死に探すムギョルを見て、
ジョンインも水底に視線を走らせた。
どんどん沖に探す範囲を拡げた二人は、
ずぶ濡れになっていた。
手に触るものは、見つけたと思っても、
波に洗われた小石や貝殻ばかりだった。
とうとうムギョルの目から涙が溢れ出した。
「ガンペからもらったのに…
大切だったのに…」
探す手を止め立ち尽くしたムギョルに、
ジョンインは怒鳴った。
「まだ、日は沈んでいません!
上手く光が当たればきっと光る筈です!
諦めるんですか?!
大事なものなんでしょう?!」
ジョンインに叱られ、思い直したムギョルはまた探し出した。
日が傾き、空が茜色に染まり出した。
ティンガがムギョルのところへ行こうかと砂浜をうろうろと歩き回っていた。
水底をじっと見ていたジョンインが突然海の中に潜った。
暫くして、水飛沫を上げてジョンインが水面から上半身を出した。
「ありましたよ!ムギョルさん!」
ジョンインがガムランボールを持った手を高々と上げた。
西日に照らされ、水に濡れたガムランボールがキラキラと輝いていた。
「よ…よかった…」
ホッとしたムギョルはその場にへたり込んだ。
座り込んだムギョルを見てティンガが激しく吠えた。
小さく笑ったジョンインは、
ムギョルの目の前に行き、
腕を取り立ち上がらせるとその手の中にガムランボールを握らせた。
「もう落としちゃダメですよ。」
見つけた時とは、打って変わった冷静な調子で言うジョンインに
ムギョルは礼を言うタイミングを失してしまった。
黒髪から水の雫を滴らせたジョンインは夕陽を受けて煌めいていた。
そんな彼をムギョルは、初めて見たかのようにまじまじと見つめていた。