季節は春。桜の頃。
私は、桜並木のある河岸脇に建ち並ぶ団地に一人暮らししている。
5階建てで、エレベーターは無くて、一棟に階段が3つあって、各階その両脇に扉があるタイプ。
その5階の、向かって右から2番目の部屋に住んでた。
私は玄関扉の内側にいて、扉の向こうに女が立っている。
私は本能的にその女が生きた人間ではないことと、その扉を開けてはいけないということだけは分かっていた。
言葉を交わしても目を合わせてもいけない、ということも何故か分かって、スコープで姿を確認した時にシルエットの段階でウワッと後退したのを覚えている。
女のどかし方が分からない。
声を掛けるわけにはいかないし、有効な呪文や手段も分からない。
女は、ずっと扉の向こう側にいる。究極に困って、私は部屋から脱出することにした。
勿論、5階なのでベランダから脱出というわけにはいかない。しかし、私は左隣が空き部屋であることを知っていた。
ベランダの仕切りのボードの下を壊して、隣に移動した。器物破損になっちゃうけど、「変態のストーカーが出た」とか後で適当に言い訳することに決めて、ベランダのガラスも割って中に入り、そちらの玄関から外に出た。
左隣の部屋の階段は右2つの部屋とは別の階段なので、女に会うことは無い。
急いで階段を駆け下りて、一番右側の階段の上方を気にしながらも、見上げて目が合ってはいけないのでそそくさと前を通過して河岸に向かった。
こういうことに詳しくて強そうな誰かに相談しよう、と思って、河岸に至る土手を上がろうとする。
そこは少し高い位置にあって、道の両側には花見客がシートを広げて賑わいを見せていた。
たくさんの人の気配に、少しホッとする。
しかし、見上げたその河岸に、女が真っ逆さまに落ちてきた。
その場にいた全員にそれは見えていて、悲鳴が上がり、真下にいた人々はザッと一瞬で退いた。
ところが、落ちたと思った瞬間に、女は消えた。人が落ちたように地表付近では空気が動いて、桜の花弁が舞い上がるのも見たのに、そこに女の死体はなかった。
何だったんだろう、と周囲はざわついていた。そんな中で、私は別の意味、茫然としていた。
目が、合ってしまった。合ってはいけなかったのに。
