自分自身が歳を重ねれば重ねるほど、妙に愛おしく感じる日になっています。
極めてありがたい事に、私の両親は健在です。
家族間で大きなすれ違いがあり、10年近く、あるいはそれ以上の期間、事実上の音信不通状態の時期がありました。
私は基本的に、人間関係において生じた問題は「時間が解決する」という考えに従います。実際はそんなに単純な事ではありませんから希望的観測が含まれる事を否定はしませんが、それでも、実際に効果があるのか否かよくわからないけれどもジワジワ効いているのであろう漢方薬と同様、時間の経過には間違いなく、お互いの感情の昂りを鎮める効果がありますよね。
私も母親のお腹の中で、母親から遺伝子の半分を受け継いだ上で育まれて生まれてきたので、当たらずとも遠からずの範囲で母親の思っている事は理解できるつもりでいます。それ故に、1年に1回とかのペースで電話やメールでの連絡を継続し、その頻度が徐々に増えて、普通に街中で会うようになり、ランチの時間を共有したりしている今に至っても、少なからず私以外の誰かに対して有し続けている可能性がある複雑な感情を鑑みた時、本来自分自身が求めた家族関係とは大きく乖離した状態であるにもかかわらず、もっぱら時間だけは同じ調子で時を刻む現実と否応なしに向き合っています。
とにかく、母は歳をとった。
相変わらず社交的で、人や動物から好かれ、植物を愛し、夫を思い、電話の声にも張りを感じます。
でも、数年前から歩くスピードが遅くなりました。…歳なりに。
私が母親の老いを強く感じたのは、この点です。その瞬間は、何とも言えない、限りある人の命というものを強く意識させられました。「人の命」と書きましたが、正確には「母の命」です。
幾つになっても、私が母親の子供である事にかわりはなく、例えば小学生の時に母親がいずれは亡くなるなんて事は考えもしなかった様に、今でも、例えば今この瞬間電話をすれば、たとえ直ぐに話をする事は出来なくとも、着信履歴に従い折り返しの連絡があるものだと考えますし、それが当然だと思っています。
しかし、自分自身が老いていく過程において、母親がいつまでも、私が求める時に、私との受け答えに興じてくれるであろう時間は、どんどんその終着の時に向かって短くなっている。
生物には必ず死が伴い、それ故に生物は進化をする。
そんな生物学的な意味での死なんてものはどうでもいい。
願わくば、今からでいいので、ただこの瞬間が、私の命の灯が消えるまで継続してくれたならば、それに勝る喜びはないと思います。
まあなんと身勝手な、順番通りではなく、母親に置いて行かれる事を嫌がるアラフィフな私がここに居る。
いずれにしても、
1日遅れですが、お母さん、ありがとう。いつまでも元気でいて下さい。
それにしても、来るべき父の日は、なんとも影か薄いなぁ…。