AIの進歩が凄まじいです。

それらを取り上げた記事の中で特に目を引くのは、今後なくなる仕事に関するもの。

それは気になりますよね。

 

資産家にとっては投資の対象の選別というテーマに収斂されるでしょう。

そうではない者にとっては、生活の糧を得る為の選択肢が失われていく事を意味します。勝ち馬を見つけて、あるいは結果的に勝ち馬に乗っていられれば当座は安泰ですが、往々にして影響は全ての仕事に及びそうです。

 

こんな時代を生き抜く考え方として、という訳ではないですが、以前から、「好きなことで徹底して遊びつくす」 という事の重要性を説く方がいます。

 

「遊ぶ」というと、何とも心もとなく感じるのが昭和世代なのですが、しかし「徹底」した先にあるものは、その「好きなこと」に対する類まれ無い有形無形「自信」であり、今のような網の目のように広がるネットワーク上でダイレクトに誰とでも繋がり得る時代においては、それそのものが武器になる「可能性」があります。

あくまで「可能性」の話で、なんの約束もされていませんが、その可能性に火が付いた時、指数関数的に新たな世界が目の前に広がるのです。

 

また、こんな時代に限らず、達観した感覚として、「人生は死ぬまでの暇つぶし」 と仰る方が居ます。

 

初めてこの考え方に触れた時は、さっぱりその真意が理解できず、若干の嫌悪感をも抱きました。しかし、人間は、好むと好まざるとに関わらず、いずれは死を迎える前提でこの世に生を受けた動物です。

 

生を受けたが故に社会の中で生きる術を身に着ける必要性に迫られます。

それは意識的無意識的に言葉を覚える事であり、義務教育を受けさせられる事であり、高等教育の場に参加する事であり、そして生活する為の報酬を得る為に今まで得てきた生きる術を使って社会参加をする、という事です。

 

生きる術を身に着けた人間にとっては、そこから先は、最終的な約束の地である「死」に向かって、もっぱら止まらない列車の乗客となる訳です。その列車の中で何をするかに関しては、その「暇をつぶす」方法が、ある人は仕事であり、ある人は趣味への没頭であり、ある人は睡魔に襲われっぱなしで、ある人はその意味に思い悩み、そして大体の人がそれを複合して過ごしていきます、よね。

 

悲しいかな、人が造りしAIの存在は、遊びつくすツールとしてさえも、あるいは暇つぶしの為のツールとしてさえも、極めて有用です。そして、AIを搭載した汎用人型ロボットが出来上がれば、もはや人間は、死ぬまでの暇つぶしの為に遊ぶつくす事を目的としてこの世に生を受ける事になるのでしょうか?

それは幸せなことなのかなぁ?

 

ようは、AIが得意とする分野が今後恐らく指数関数的に増えていく過程で、それでも尚我々が、やれ語学だの、やれプログラミングだの、を勉強する理由は、これはもはやボディーメイクを目的とした筋トレと同様、「自己満足」 を得る為の手段の行使にすぎない、かもしれません。

 

でも、それでいいと思いませんか?

今の時代、好きな事があるならば、それに夢中になって人生を過ごす事がベストです。

仕事が好きな人は、現状のそれでよし。

仕事を 「生活の糧を得る為の手段」 と考える人にとっては、どんな時代でも選り好みさえしなければ生活の糧は得られます。

 

「この仕事はなくなる」 とかの未来予想を元に、如何にして勝ち馬に乗るかばかりを考える人生は、もっぱらそういう事が好きな人以外は、もしかしたら意識しなくて良い事かもしれないですね。

すなわちそれは、「おたく」 になる事の重要性の証左です。