義務教育である小学校あるいは中学校への通学に関して、著名な方々が様々な意見を述べられています。

「義務」教育だという事に全く違和感を持っていなかった私は、例えば小学校に通いたくなければ通わなくていい、という考え方には、違和感がありました。

 

親の法律上の就学義務を根拠に「義務だ」というような循環論法を展開する気はありません。

私は、仮に子供が「通いたくない」という態度を作為不作為に示した際に、親として、その真の理由に接する事が可能かどうか、という事が大切ではないか、と思います。言うは易く行うは難し、ですが。

 

自分に合わない環境から身を引く事は、個人の精神衛生を保つために重要です。

一方、社会の中で生きていく事を前提に考えた時、「我慢する」というと重たくなりますが、「受け流しながらその場に留まる」事が大切な状況もあります。

 

もっとも、この判断基準に真理は存在しないので最終的には自己判断になるのですが、義務教育と言われる学齢に身を置く子供たちに全ての判断を委ねる事は問題です。なぜなら、

「自由は責任を伴い、権利は義務を伴う」

この、至極当たり前のトレードオフとも言える関係性を、社会経験に乏しい義務教育段階の子供達が理解できている可能性が極めて乏しいからです。

 

多様性の時代ですから、昭和時代の画一的教育スタイルとの間に齟齬が生じてもおかしくありませんが、社会の中で生きる以上は全てが個人の思い通りに行くことは無く、それ故に、義務教育はその現実を教える場であると、私は愚考します。

 

学校に行きたくない理由は、勉強がきらい、怖い先生がいる、嫌いな友達がいる、人混みが苦手、など、いろいろだと思いますから画一的な対策は不可能だと思いますが、例えば学校内にフリースペース的な「逃げ場所」「悩みを持ち込んでよい場所」を作り、その場にはそんな仲間が自然と集まり、入校許可を得たお年寄りや大学生のボランティアが話相手になり、社会とは、という事を肌感覚で子供たちが理解して、徐々に教室に戻る、、、。

 

素人が考える夢物語でしょうか。

アドラーの末端の弟子を自認する私として、対人関係の悩みが仮に学校嫌いの大きな理由であるならば、それを理解した上で、世の中とは、という事を義務教育の各々の学齢において理解させ得るだけの方々との接点をフリースペースで与える事が出来れば、学校が別の視点で行きたい場所になると思いますが、人材の問題が悩ましいですね。

 

ちなみに勉強嫌いな場合、これは持論ですが、その科目を勉強する事の意味、すなわち、事象からの逆算で必要性を認識させられれば、勉強が楽しくなりますよね。歳を取れば取る程、何故か中学校や高校時代の科目を学び直したいと思う、この感じ。すなわちこれは、確実に大人の責任だと思います。


「素直に言われた事をやれ」に説得力が無い事は、私たちが一番よく理解してますものね。