早いもので令和6年が始まって3分の1が過ぎました。

 

小学生の頃は、今よりもはるかに短かった5月の連休を、学年が変わった最初のイベントとして、1カ月間、首を長くして待ったものです。しかしながら最近の印象としては、首を伸ばすまでもなく、気が付けば年が変わってから「もう」この時期、という感じです。流れる時間の速さは変わっていないはずなのに。感覚は同一方向への変化を続けていて、それがヒトとしての成長の結果なのか否かはわかりませんが、いずれにしれも、今日は4月最後の日です。

 

今年の自分自身に対して言える事は、現時点ではあえて抽象的に表現しますが、明確に「次への第一歩」を踏み出した、という事です。

 

2年前のそれこそゴールデンウィークが終わる頃から英語の勉強を再開して今に至ります。

自分としては珍しく、勉強を再開する原因を与えてくれた書籍に記載されていた「心構え」あるいは「考え方」に極めて忠実に勉強を継続しました。語学はコミュニケーションツールの最たるものですから、結局は現実世界での意思疎通が出来てこそ価値があります。現在、過去には感じた事が無い位、実践的な運用ができるようになるであろう自分が想像できています。そして、遅ればせながらですが、語学が活用できる場所を求めて動き始めた、というのが「次への第一歩」。

とにかく前を向いています。

 

そんな中、つくづくと、人生は有限である、という事実に思いを馳せます。

 

幼い頃には、早く大きく(大人に)なりたいと思っていた時期が確実にありました。それは何故かなと改めて考えた時に、大人になる事で、「経済的な制約」から逃れられるのではないか、という、正に幼い子供としての、美しい表現を使うならば自立心がそう思わせていたのかもわかりません。もちろん実際はそんな事はなくて、子供であるが故の優位性は時間の経過と共に必然的に奪い去られて、途中停車という概念がない人生の列車は、気を付かせないまま、無垢な子供に大人への階段を一歩、また一歩と登らせ続ける。無意識ながらもやらされているのが事実なので、結果しんどくて、ゆえに時間の経過が遅く感じていたのでしょうか。

 

そして、どこからかに存在する中立地帯(時間)を通過して大人っぽい立ち位置に成るに際して、それまで自分自身が意識的あるいは無意識的に行ってきた作為あるいは不作為の結果が一気に最初の羽化を実行して、行動の結果に応じた様々な形の大人が空へと舞い上がる。

この段階での羽化に失敗してしまう人(子供)も居るでしょうが、しかし安心材料は、これは正に本人次第で、その時点では単に美しくどこまでも高く舞い上がれないだけ。昆虫と人間の大きな違いは、羽化のチャンスは、本人がその気になれば、何度でも、何度でも、何度でもやってくる。だから、人生なんてものは、本人次第でいかようにでも方向を定める事が出来るし、一見遠回りしているようでも、結果的にはその後に実る果実を得る為の通過点だったという事になり得るのです。

 

よく、「人生はやり直せる」という表現に出会いますが、私には違和感があります。

人生は途中停車の無い一方通行ですが、「やり直す」という表現は、どこかの時点に巻き戻せる雰囲気を示しています。しかし、結局は、人生の途上における新たな進展は、すなわち過去の全てが糧になっている訳で、それは「やり直し」ではない。加えて「やり直し」となると、時間的な巻き戻しさえもイメージさせますから、人生の現在地との齟齬あるいは距離感を感じてしまい、妙にしんどくなってしまいます。

 

途中停車がない一方通行かつ有限の人生というレールの上を定速で走っている自分自身の存在に対して俯瞰的に意識が及んだ時、あら、正に「大人」になったのかな、と、この際は一抹の寂しさを感じつつ、一方でもっと早くこの現実に気が付いていれば人生が大きく変わっていたかもね、等と自虐的に考えつつ、しかし総じて言えば、これらの気付きは人生の後半戦に突入している自分自身を確実に豊かにしてくれる、との恐ろしい程に強い創造力が、私を、常に足元を強く意識しつつもその先へその先へ、と誘っています。

 

それにしても、今はとてもいい時代です。羽化するチャンスが過去に例を見ない程多くなっています。それは老若男女を問いません。その恵まれた環境が当たり前になってしまうが故に、以前にもまして成長意欲のある人とない人との格差が生じます。1億総中流という言葉がありましたが、間違いなく死後になるでしょうね。仮にそうであったとしても、100年前に比べれば、皆が極めて豊かな生活が送れている訳で、それはそれでいいじゃないですか。

 

という事で、何を恐れる事があろうか、私が創造する美しい未来に向けて、私は、何度目かの羽化を試みます。