午前中は日課である英語の勉強を行い、普段は食べない昼ごはんを頂いて、それからお風呂とトイレの掃除をした後に、夫婦でお礼参りに出かけました。息子の大学受験が無事に終わった事に対するお礼です。もっとも、一番お礼参りに行くべきである当の本人は、友達や先輩と遊ぶ事が楽しくて仕方がないらしく、この場には居ませんでした。

 

若い頃、というのが何歳位までを指すのかは人それぞれだとは思いますが、いずれにしても私自身が若い頃は、神社やお寺には全く関心がありませんした。それ故に、神社仏閣巡りが趣味という人の気持ちは全く理解できなかったです。しかし時が経ち、相応に様々な経験を得て今に至り、いつの頃からか、その様な場所が、なにかしら心の拠り所になっているから不思議です。

「困った時の神頼み」とはよく言いますが、困っているいないに関わらず、スピリチュアルな力に頼りたいと思う時に、私は神社に赴いて、二礼二拍手一礼して目をつぶり、心の中で、もっとも、少しは発声を伴いながら自分が持つキーワードを念じます。その瞬間に、心がすーっと心地よい深淵に導かれるように感じるときは、私にとっては全てが上手くいくサインです。

 

現況を鑑みた時に、やっぱり歳をとったなあと感ぜずには居られません。そして常に考えてしまうのが、今ぐらい世の中に対する知見を持って、もう一度小学生から人生をやり直す事ができたら、恐ろしく充実した人生を送る事が出来るであろうとの非現実的な願望です。無論、その実現は不可能な事であり、いつの時代にも共通して言えることは、未来への可能性に対してどこまで自分自身を委ねる事を自分自身が許し得るか、という、ある意味自分との勝負のみが、いずれはやってくる自分自身の最期の瞬間まで否応なしに継続するという、それはそれで向上心があるならば刺激的な毎日との共生が有限の時間という制約を伴いつつ、続くという事です。

 

全てにおいて若さは力だと思います。それ故に、第一志望、ではないけれども、それに限りなく近い志望校の合格を運よく勝ち取り、仲間に恵まれ、楽しみながら社会経験という知恵を、お礼参りという一大事を後回しにしながら実装している愚息に対して、アドラーには怒られますでしょうが、羨ましさしか感じません。