二日前どろんこに汚れた靴を、綺麗に出来ないでいる。

 

二日前。

6月23日。雨降るなか、沖縄全島では沖縄戦における戦没者の慰霊祭が行われていた。

 

七十四年前の1945年。昭和20年6月23日。

太平洋戦争末期、米軍の日本本土侵攻における前哨戦として、沖縄本島が攻撃された。

軍はもとより、沖縄県民の4人に1人が犠牲となった壮絶な地上戦となった。
その沖縄戦の組織的戦闘の終結の日。

以後、6月23日を慰霊の日と定め、慰霊祭が各地で執り行われている。

 

糸満市摩文仁の平和公園で行われる、県知事、総理大臣が出席する行った大規模な慰霊祭は全国ニュースで取り上げられ有名。普段も沢山の観光客が訪れている。
その地から北西へ約3㎞行った、真栄里の地に普段は静かな林の中に、大空に向かって慰霊碑が建っている。

白梅之塔

昭和20年3月、看護隊として軍に配属された8つの女子学徒隊のひとつ(その内のひとつに有名な『ひめゆり学徒隊』がある)、県立第二高等女学校の女子学徒隊、通称白梅学徒隊と同窓生・教員の慰霊碑。

動員された4年生、16歳の少女56名の学徒のうち22名が犠牲となった。

 

1995年、戦後50周年の時、沖縄戦の映画撮影で来ていた休暇の日に、偶然に白梅之塔と出会った。

観光地となっているひめゆりの塔とは対照的に、静かに建つその塔に、散っていった少女たちの儚さを感じた。

以来、白梅の少女の物語を何かで伝えたいと感じ続けていた。

それから20年、2015年4月。証言劇『白梅学徒看護隊の青春』として企画演出し、舞台上演致しました。

 

上演準備等で白梅学徒の証言者、白梅同窓会会長中山きくさんと懇意にさせて頂くようになりました。

 

 

中山(旧姓・津波)きくさんは現在90歳。他の証言者たちが高齢で活動を停止するなか、命の続く限り白梅学徒の悲劇と戦争の無意味さを伝え続けようと精力的に活動をされています。
また若者たちが参加し「白梅継承の会」も発足し、次世代へと語り継ぐ基盤も出来上がった。

 

今年も白梅之塔慰霊祭に参加。

悪しくも天候は、雨。朝からスコールのように激しく地面に叩きつけていたが、陽が高くなるにつれて小雨に。
73回を迎える慰霊祭は始まった。

 

「時代や暮らしが変わろうと、どんなに手を尽くしても失われた皆さま方の命がよみがえることはない」

八重瀬岳の陸軍病院壕で凄惨な現場に従事し、病院解散後彷徨し様々な悲劇を体験した中山きくさんがスピーチ。

 

白梅之塔の傍らには壕の入り口が寂しく口を開けている。

沖縄戦末期、国吉下の壕と呼ばれたこの壕に避難し負傷兵を看護していた白梅学徒6名は、米軍の攻撃に合い立てこもる陸軍と共に全滅した。
昭和20年6月21日の事。
沖縄戦で組織的戦闘が終結する僅か2日前であった。
 

慰霊祭のときに必ず舞い現れる黒い蝶。
ゆっくりと会場を、訪れる方々に語りかけ、楽しんでいるかのように舞う。

「亡くなった少女たちが蝶になってやって来てるんです」
と、同窓生たちは言う。

 

各関係者の鎮魂の挨拶。

白梅学徒関連の方々の平和への演奏、スピーチが続く。



 

 

慰霊祭終了後、隣のお堂のある広場で元女子学徒の武村(旧姓・桑江)豊さんが、小雨が吹き込むなか、往年の高等女学校の思い出、学徒隊の話を若い方々に語った。

平和の灯を灯し続ける一日であった。

その時、白梅之塔まわりのぬかるみで、どろんこになった靴。
その泥を拭う事を今もためらっています。


 

 

 

 

 

 

 

 舞台「青い眼の赤トンボ」の劇中にて、「汚名挽回」のセリフを誤用だという指摘がありました。
 汚名を挽回してどうする、という現在の一般常識だと思いますが。
 一方では「汚名挽回」は誤用でないと国語辞典編集者飯間浩明氏が主張され、三省堂国語辞典に正式に記載されています。
 飯間氏のツイートより引用
〈「挽回」は「元に戻す」という意味があるので、「汚名挽回」は「汚名の状態を元に戻す」と考えられ、誤用ではない。これは『三省堂国語辞典』第7版に記述しました。『明鏡国語辞典』もやんわりとですが、誤用と決めつけられないことを記しています。「汚名挽回」の汚名挽回なるか、といったところ。〉
〈この「汚名挽回」誤用説はいつ頃から発生したか。私の知るかぎりでは、1976年の『死にかけた日本語』(英潮社)の指摘が早いです。それまで「汚名挽回」は普通に使われていたのに、これ以降、誤用説が強まり、今は肩身の狭い立場になった。この本はけっこう影響力があり、やっかいな存在です。〉
 NAVERまとめより
 「汚名挽回」は誤用ではない~誤用とされてきた歴史まとめ
 https://matome.naver.jp/odai/2139899391825390701?&page=1
 今回の「青い眼の赤トンボ」の使用は、岡本喜八監督が書かれたオリジナル語句を尊重するとともに、一度検証し、飯間氏の主張を取り入れ、そのままとしました。
 脚本が執筆されたのが1975年。まだ誤用と世間が認識する以前に書かれたものである事も分かりましたので、なおさら、使用したくなりました。
 テレビや映画などの公共の場に大きく発信する場では、現在の常識に準じるべきだと思いますが、小劇場公演の限定された場だからこそ、放送コードに確実に引っかかる他のセリフと共に、使用してみたいと思い、使用いたしました。
 みなさんにいらざる気遣いをさせたのも事実です。
 失礼いたしました。