きそふきそ | 黒田勇樹オフィシャルブログ「Surrea StringS」

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昨日の日付でブログを書かなかったのでメモ程度に

今日の大ニュース、不起訴になって釈放されましたね

僕はジャーナリストでも警察官でも弁護士でも検察官でも裁判官でもなく

司法が下した判断を超えた責任の追求というのは、私刑(リンチ)だと考えるので

事件に関わる方の個人名は出しませんが

不起訴というのは、検察が事件について「裁判しないよ」という判断を下し、容疑者も前科がつかない、つまりそもそも「犯罪者じゃないよ」というハンコを押された状態

犯罪者じゃなければ、罰を受ける必要がないはず(示談が成立したとか社会的な制裁を受けたとか、そういうこともひっくるめて不起訴の判断だろうから厳密に全く罰なしと判断されたワケじゃないとしても)なんですが

これからもこれまでも、報道なりゴシップなり司法の判断を超えた私刑によって、行為の対価=罰を受け続けることになるでしょう

ここで考えるのは「事件性どうこう」ではなく

「え、無罪になるかもしれなかった人、あそこまで犯罪者扱いして報道して良かったの!?」

と、いうこと

今後の報道については、本人の名誉回復の為に真実を追求しなければいけないという側面も出てくるでしょうが

そもそもなんでじゃあどうして、そこまではっきりしない状況でここまで報道が過熱してしまったのか

「司法によって無罪という判断が下される可能性がある人間に対して、ここまで大々的に事件として扱えてしまう報道の在り方」

もしくは

「ここまで大々的に報道される規模の事件に対して、不起訴という処分を勝ち取る手段がある司法の在り方」

どっちかに絶対、大きな問題があるよね

報道が「罪のない人間の将来を潰す手段」となりえるのか

司法に「大罪を犯した人間を野に放つ抜け穴」があるのか

どちらも他人事ではなく自分の身に危険が降りかかりかねない、生活に隣り合わせた重大なシステムの欠陥に思えます

今後しばらくこの事件(いや、もう騒動と呼ばれるのか?)についての報道や議論が続くでしょうが、是非その中で個人や家族の人間性についてばかりではなく

上記したような「司法」と「報道」という「社会システムの在り方」についても

今回正しいことが行われたのであればその正当性について

間違いがあったのであれば、再発を防止する対策について

受けとる側が安心できるような内容の情報が発信されることを祈ります