どーこだw まぎれてましゅw

今日は、成吉思汗たれの日
日本初の家庭用焼肉のたれを
開発・展開し、北海道のジンギスカン
普及に大きく貢献した
成吉思汗たれの製造・販売を
行っているベル食品株式会社が、
タレは肉の上にかけて食べる
との意味合いから、
4月29日に記念日制定されている
羊肉の日の、カレンダーで上(1週前)
にあたる4月22日に記念日
を制定しております。

羊毛の生産のために輸入
明治時代、欧米文化の流入によって
毛織物の需要が増大。
政府は羊毛の国内生産を目的に
「緬羊」の飼育に力を入れ始める。
大正時代に入ると、
第一次世界大戦の勃発で
羊毛の輸入が止まり、
1918年(大正7)には1
00万頭増殖計画を実施、
1935年(昭和10)には中華事変、
第二次世界大戦などにより
軍需羊毛の自給のために
緬羊飼育が国策として奨励された。

羊毛
ちなみに、日本の歴史に羊が
登場するのは、日本書紀の中で
「559年(推古7)の秋9月の癸亥の朔に、
百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹
・羊二頭、白い雉一羽をたてまつった。」
という記述が残っている。
食用を始めたのは大正時代にさかのぼる。
当時、中国大陸に進出していた
日本人が蒙古(モンゴル)民族の調理方法を
参考にして、日本人の口に合う調理法として
考え出されたのが、
「ジンギスカン」だと言われている。
北海道では毛肉兼用のコリデール種を
飼育していたことから、
羊肉の普及に向けた取り組みを
月寒種羊場と滝川種羊場で
行ったことが記録に残っているが、
羊肉特有の臭みなどが原因からか、
羊食は進まなかった。
余談だが、緬羊の飼育は
第二次世界大戦後、
衣料不足を補うため盛んに
行われるようになり、
1957年(昭和32)94万頭まで増え、
ピークをむかえる。
 

コリデール種
その後、輸入羊毛の増加による
羊毛価格の下落やハム・ソーセージ
などの加工原料肉として需要が高まり、
1965年(昭和40)には20万頭、
1976年(昭和51)には1万頭まで減少する。
現在では、緬羊としてではなく、
ラム肉生産のために飼育されている。

北海道とジンギスカン
北海道では前述のとおり
昭和初期から羊の飼育が
盛んに行われていた。
滝川種羊場長を務めた
山田喜平氏とマサ夫人が
ジンギスカンなど
羊肉料理の普及に尽力した
人物として知られており、
昭和10年代から農業関係雑誌
などで羊肉の調理法などを
紹介している。
この頃の食べ方は、
ゴマ油を塗った金網を
七輪にかけて、炭火の中には
松の枝を混ぜ、
燻すことで臭みを消していた。
山田夫妻は、焼き物、揚げ物、
煮物など約30種類の調理法を
詳細に説明し、普及を図っている。

1936年(昭和11)1月、
狸小路6丁目の飲食店「横綱」で
行われたジンギスカンの試食会でも
山田夫妻が肉と鍋を持参し、
たれの作り方や調理法を伝授した。
この時の試食会を主催したのは
北海道庁で、評判については
羊肉独特の臭みやたれに使われた
ニンニクの臭いが強すぎたこともあり、
不評に終わっている。
横綱ではその後も、
鍋やたれに改良を加えた
「ジンギスカン鍋」
をメニューとして
出していたが、
多くの人に受け入れられる
ことはなかった。
種羊場では緬羊の飼育はもちろん、
近隣の農民に羊の飼育方法を教えており、
農家では豚などとともに、
収入の手段として数頭の羊を
飼う習慣が少しずつ広まっていく。

月寒種畜牧場
終戦後にジンギスカンを違和感なく
受け入れたのには、
こうした農家では、
羊肉を手に入れやすく、
食べ慣れていたため、
下地はできていたと考えられる。

北海道の郷土料理へ
ジンギスカンが北海道の郷土料理
として広がりを見せるのは、
昭和20年代後半になる。
1951年(昭和26)頃、滝川の飲食店が
種羊場のジンギスカンに目をつける。
後に羊肉をたれに漬け込む
「松尾ジンギスカン」のスタイルが、
この頃に登場する。
札幌では月寒に「成吉思汗倶楽部」が
1953年(昭和28)に発足するなど、
ジンギスカンを食べさせる
飲食店が少しずつ増え始める。
そして1956年(昭和31)にベル食品が
「成吉思汗たれ」を発売する。
ジンギスカンの知名度は
広がっていたものの、
家庭料理としては認知されて
いなかったが「成吉思汗たれ」の登場で、
より身近な食べ物へと発展することとなる。
北海道以外にも岩手県遠野市など、
ジンギスカンを名物料理として
出すところが数カ所ある。
北海道と遠野市の共通点は、
種羊場があり、
羊肉を食べる機会が多いことが
あげられる。
実際、昭和30年代の北海道は、
高度経済成長期へと
進み始める時代だが、
肉類などの食品は決して
豊富ではなく、他の肉類に比べ安く、
手軽に入手できる羊肉を
使ったジンギスカンが
受け入れられる土壌だった。
また、この頃は飼育1年以上の
「マトン」が多く流通されており、
生後1年未満の「ラム」に比べ、
羊肉独特の臭みが強かった。
そのため食べ慣れない人には、
臭みを敬遠し「ジンギスカンは苦手」
という人も多い。
鮮度が良ければこの臭みも少ないが、
羊肉の産地から遠い東京などで
「ジンギスカン」が定着
しなかったのもここに原因があった。

ジンギスカンが家庭に浸透
ベル食品が「成吉思汗たれ」
を開発する経緯は、
その少し前に「つゆの華」という
そばつゆを発売していたことに由来する。
市販のめんつゆがない時代に
いち早く開発、販売した。
ジンギスカンのたれも同じように
市販されているものがなく、
羊肉を扱う精肉店が手作りで
販売したり、
もしくは一部の家庭では
手作りしていた。
そんな中、発売された
「成吉思汗たれ」は当初、
順風満帆の売り上げではなかった。
今では見慣れた中央が
盛り上がったジンギスカン鍋も
この頃は珍しく、
どの家庭でも常備するようになるには
もう少し時間がかかる。
もともと北海道の農家では、
羊毛を採るために数頭の羊を
飼育するケースも多く、
羊肉を食べる習慣は
農村が中心だった。
前述の通り戦後の食糧難の時代には、
羊肉は貴重なタンパク源として
重宝されるが、
「羊肉」イコール「ジンギスカン」
となるのは昭和30年代中頃以降になる。

ジンギスカンの由来
名付け親は札幌農学校出身
(現北海道大学)の駒井徳三氏
という説が有力視されている。
駒井氏は満州鉄道の調査部に所属し、
中国全土を踏査した経験もある。
野趣あふれる羊肉料理に蒙古の英雄
「チンギスハーン」を重ねて
名付けたとされている。

発売当初の売れ行きの伸び悩みは、
家庭でジンギスカンを食べる
習慣がなかったことが大きい。
1958年(昭和33)、ベル食品の
社長に就任した山本豊蔵氏は、
「成吉思汗たれ」1箱に特製鍋を
一つ付けて売り込むことを始める。
このアイデアが好評で、
精肉店では羊肉を買ってくれた
客に貸し出すのだが、
回収が間に合わないほど好評で、
その結果「成吉思汗たれ」
は少しずつ売り上げを伸ばす。
このようなアイデアはもちろんだが、
地道な営業努力もあった。
栄養士を講師に、問屋を招いた
講習会を道内各地で開き、
ジンギスカンという料理を
広めることに時間と手間、
お金をかけた。
こうした努力のおかげで、
大ヒット商品へと成長する。
ベル食品の工場ではほとんどが
手作業でニンニクやリンゴ、
タマネギを摺り下ろし、
「ニンニクを摺った日は臭いが
身体に染み着いてバスに乗れなかった」。
「タマネギの皮むきも大変な作業で、
涙が止まらなかった」
などの話が伝えられているほど
多忙を極め、製造したものから順次、
出荷するほどだった。
当時、北海道観光ブームがおこり、
ビールとジンギスカン、
大通公園とトウキビワゴンなど
北海道のイメージが定着するのも
この頃で、こうしたブームが
ジンギスカンの浸透に拍車をかけた。

花見でジンギスカン
昭和30年代後半に入ると、
ジンギスカンは道産子にとって
欠かせない食文化へと広がる。
中でも花見やキャンプなどの
屋外行事では、ジンギスカンの煙と臭いが
必ずといっていいほど
立ちこめるようになる。
さらに、小・中学校で
行われる炊事遠足でも
カレーライス、豚汁と並んで
定番料理として作られるようになり、
ジンギスカン鍋は「一家に一つ」
という時代になる。

1966年(昭和41)にはサッポロビールが
赤れんが造りの製造工場を改築し、
サッポロビール園を開園する。
開業当初からジンギスカンとビールを
出すスタイルは変わらず、
北海道観光の定番コースとして確立する。

ジンギスカンが北海道の郷土料理として
定着するのは、
前述のとおり昭和20年代後半から
30年代だと推測できる。

当時、簡単に安く手に入った
「羊肉」や観光ブームなどの
影響はもちろんあるが、
ベル食品が「成吉思汗たれ」を発売し、
それを売るためにあらゆる努力を
重ねたことが大きく
影響したことは間違いない。

ジンギスカンは
花見に不可欠の存在

その証拠に、昭和40年代に入ると
本州のメーカーが
「ジンギスカンのたれ」
を発売するが、その時にはすでに、
道産子にとってジンギスカンの
「たれ」は、三角ビンに
オレンジ色のラベルが目印の
「ベル成吉思汗たれ」
の味に慣れ親しんでいたため、
早々に撤退することになる。

ジンギスカンの「鍋」
家庭に普及していった

ジンギスカン鍋
もともと網や鉄板で
焼いていたものが、
中央の盛り上がった
鋳物製の専用鍋に
変わったのは第二次大戦後
からだといわれている。
厚い鋳物製の鍋は、
熱の保温力があり、
たくさんの肉を置いても
一気に冷めることはなく、
屋外料理として大勢で
食べることが多い
ジンギスカンに適している。
また、盛り上がった
中央部分に肉を置くことで、
余分な脂が流れるため
香ばしく焼くことが
できる利点もある。
さらに野菜を端で
焼くことによって、
肉に野菜から出る
水分が届かないなど、
よく考えられた鍋だが、
考案者など諸説あり、
特定することは難しい。

各家庭、育った地域などに
よって異なるため、
はっきりとした地域区分は
難しいものの、
札幌や函館、釧路などでは
前者が好まれ、
旭川や滝川、帯広などは後者が多い。
サッポロビール園をはじめとした
「ビール園」では、
焼いてからたれに付けて
食べる方が多い反面、
「松尾ジンギスカン」
をはじめとした有名店では
肉をたれに漬け込む店が多い。
しかし、昨今の「生ラム」ブームの影響で、
焼いてからたれに付けて食べる
タイプのジンギスカン専門店が増えている。

羊肉を使った料理を紹介
2004年(平成16)頃から
ジンギスカンブームが到来する。

これは米国でBSEが発生したことで、
米国産牛肉の輸入禁止に端を発する。
家庭ではもちろん、
焼き肉や牛丼などの外食産業にも
大きな影響を及ぼした。
そんな中、チルドなど
輸送技術の発達で新鮮な羊肉、
とくに「生ラム」など
くせの少ないものが手に
入りやすくなっていた。
さらに、羊肉は低コレステロールで、
コレステロール値を下げる
不飽和脂肪酸も多く含まれている。
ほかにもアミノ酸の一種の
カルニチンやビタミンB群、鉄分などの
豊富な栄養成分が注目され、
全国でジンギスカンブームが
巻き起こる。
2005年(平成17)末には
東京都内だけでも200店以上の
ジンギスカン専門店が登場し
全盛を極めたが1年ほどで収束する。
しかし、ブーム後に
ジンギスカン店の数は半分以下に
なったものの、ブーム前に
比べても増えている。
何よりもジンギスカン独特の
「臭み」に対して苦手意識を
持つ人が少なくなり、
都内のスーパーマーケットにも
「ラム」が置かれるようになった。
前述のとおり、輸送技術の
発達により新鮮な羊肉が
流通するようになり、
日本全国で食べられる
ようになったが、
逆に住宅環境の変化もあって、
北海道の家庭では
ジンギスカンを食べることが
少なくなった。
相変わらず屋外での
人気はあるものの、
焼き肉に押されているのが
現状で「一家に一つ」あった
ジンギスカン鍋も、
今では少なくなっている。
しかし、道産子にとって
ジンギスカンは流行に
左右されない、
郷土料理であることには
間違いない。

 

ジンギスカンは好きな料理でしゅw

家の事情で焼肉、鉄板料理、すき焼き等

匂いの籠る物は、出来ないのでしゅw

残念w

今度、キャンプに行った時、

ジンギスカンに挑戦しましゅw