どーこだw はーるよこいw

今日は、織部の日
千の利休亡き後に
豊臣秀吉の茶頭を務めた
古田織部が、
慶長4年2月28日に
自分で焼いた茶器を
用いて茶会を開いた
ことにちなんで
岐阜県土岐市が
記念日に制定しております。

新暦1599年3月24日
この時に使われた器が後に
織部焼のはじまりと
されております。

また、昭和期には
当時使用されていた
織部焼の茶器が岐阜県土岐市内に
点在する窯跡から発掘されており
織部焼の生産地は美濃の辺り
だったことが確認
されております。
美濃は、現岐阜県南部〜愛知県の一部

古田織部とは
戦国時代から江戸時代初期に
活躍した武将です。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、
関ヶ原の戦いでは
東軍に与しました。
しかし大阪冬の陣頃から、
豊臣氏と内通していたとされ、
徳川方の軍議秘密を
漏らしたとして捕らえられ
古田織部は切腹を命じられ
生涯を閉じました。
茶人としても知られ
千利休に弟子入りした
古田織部は、千利休とともに
茶の湯を大成したとされています。
そんな古田織部の生い立ちや
切腹した理由、茶人としての
有名な作品や子孫について
解説していきます。
 

古田織部の名前
古田織部という名前は
本名ではありません。

本名は古田重然
とされています。
「織部」という名前は
壮年期に官位、
従五位下「織部助」
を与えられた
ことから由来しています。

古田織部の生い立ち
天文12年(1543年)
現在の岐阜県である
美濃国の国人であった
古田重安の弟・古田重定
の嫡男として誕生しました。
嫡男であった古田織部
ですが伯父・重安の養子
として迎えられることとなります。
古田織部は武士であった
父・古田重定と同じように
武士を志し、武士として
育てられてきましたが、
一方で茶の世界に
興味を抱いていた
とされています。
しかし、古田織部の名前
が初めて茶会の記録に
登場するのは天正11年(1583年)
のことで、
この時古田織部が40代頃でした。
また、松屋久重によって編纂された
「茶道四祖伝書」には
佐久間不干斎からの伝聞として、
「古田織部は若いころは
茶に興味がなかった。
しかし、中川清秀に
勧められ茶の世界に興味を
持つようになった。」
と記されています。
このようなことから、
古田織部が茶の世界に
興味を持つようになったのは
壮年期頃からではないか。
とも推測されています。

織田信長に仕える
古田織部は武士として
美濃国の守護大名土岐氏
に仕えていましたが、
永禄9年(1567年)頃から
織田家に仕えるようになり、
織田信長の家臣として
使番を務めました。
翌年には織田信長とともに
上洛をはたし、
摂津攻略に参加した
とされています。
永禄11年(1569年)
には摂津国の茨木城主
・中川清秀の妹・仙と
結婚しました。
 
武士としての経歴
その後、天正4年(1576年)
山城国乙訓郡上久世荘
(現在の京都市南区)
の代官となり、
天正6年(1578年)7月には
播磨神谷城攻めの使番となり
良い働きぶりを見せます。
天正6年(1578年)11月、
織田信長の家臣であった
荒木村重が謀反を起こすと、
荒木方についていた
義兄・中川清秀を
織田方に連れ戻すことに成功し、
織田家の勝利に導きました。
(有岡城の戦い)
その後も、豊臣秀吉が行った
播磨攻めや、
明智光秀が行った丹波攻め、
甲州征伐に義兄である
中川清秀とともに出陣します。

 豊臣秀吉に仕える
主君・織田信長が
天正10年(1582年)6月2日、
本能寺の変で亡くなると、
古田織部は豊臣秀吉に
仕えるようになりました。
豊臣秀吉に仕えた古田織部は
天正11年(1583年)正月に
滝川一益を攻め、
同年4月には賤ヶ岳の戦いで
功績をあげます。
この賤ヶ岳の戦いにおいて
義兄・中川清秀が戦死すると、
古田織部は中川清秀の
嫡男・秀政の後見役となりました。
その後、中川清秀の嫡男・秀政
とともに小牧・長久手の戦いや
紀州征伐、四国平定に出陣します。

武士としての経歴
天正13年(1585年)
豊臣秀吉が関白に就任すると、
古田織部は「従五位下織部助」
に任ぜられ、九州征伐や
小田原征伐に出陣します。
文禄元年(1592年)から
始まった朝鮮出兵では
朝鮮に渡らず名護屋城東二の丸に
在番衆として日本に留まりました。

茶人としての活躍
朝鮮出兵が行われる少し前の
天正10年(1582年)から
豊臣秀吉に仕えていた
茶人・千利休の書簡に
古田織部の名前が登場し始めます。
この頃からから千利休と
交流を持つようになったとされ、
弟子となった古田織部は
千利休とともに茶の湯を
大成していくこととなります。
しかし、天正19年(1591年)頃から
千利休は豊臣秀吉と対立関係となり、
その後、追放処分を受ける
こととなりました。
茶人としての古田織部の評価は、
後に「利休七哲」に
数えられるほど高いもので、
千利休亡き後は天下一の茶人
となったとされています。

徳川家康に仕える
慶長3年(1598年)頃になると、
古田織部は家督を嫡男・重広に
譲ったと考えられています。
主君・豊臣秀吉が亡くなると、
その後、天下統一を目論む
徳川家康と石田三成が
対立するようになり、
関ヶ原の戦いが勃発します。
古田織部は関ヶ原の戦いに
おいて東軍に味方しました。
この頃になると古田織部は
茶の湯を通して朝廷や貴族、
また寺社との関わりを
持つようになっていたとされ、
全国の大名に大きな
影響を与える茶人となって
いたとされています。
そのため、2代将軍・徳川秀忠は
大名に強い影響を与える
ことのできる古田織部を
茶の湯の指南役に抜擢しました。

切腹をした理由
慶長20年(1615年)
大坂の陣が勃発します。
この戦いは江戸幕府と
豊臣家との間で行われた戦で、
古田織部が江戸幕府に
味方していました。
江戸幕府に味方していた
古田織部でしたが、
重臣である木村宗喜が
豊臣方に内通し京都に
火を放つといった計画を
企てたとして京都所司代の
板倉勝重に捕らえられる
といった事件が発生します。
しかし、大坂の陣頃になると、
古田織部も豊臣方と
内通していたとされ、
徳川方の軍議秘密を
漏らした疑いで捕らえられる
こととなりました。
捕らえられた古田織部は
切腹を命じられることとなり、
大坂落城後の慶長20年(1615年)6月11日、
73歳で人生の幕を閉じました。

有名な作品
古田織部は武士だけではなく、
茶人としても活躍しました。
千利休に弟子入りした
古田織部は千利休が確立した
詫び寂びの茶の湯を継承しながらも、
詫び寂びとは対照的に
大胆で斬新なデザインをした
茶碗を好んだとされています。
古田織部が好んだ大胆で
斬新なデザインは
「織部好み」と呼ばれました。
古田織部は自身の考えた
デザインを職人や
陶工らに造らせ、
茶の湯のデザイナーとしても
活躍していました。
古田織部によって制作された
陶器は「織部焼」と呼ばれ、
中でも「黒織部鷺文筒茶碗」や
「鳴海織部扇面鉢」は
有名な作品となっています。

家紋
古田織部が使用した
家紋は三引両と
呼ばれるものです。

子孫
古田織部には前田利常
の家臣となった重尚、
池田利隆の家臣となった小三郎、
豊臣秀頼の家臣となった重行、
徳川秀忠の家臣となった重久
と4人の子供たちがいました。
しかし、4人とも古田織部が
切腹した際に共に自害し
亡くなっています。
古田織部が亡くなると、
茶の湯は娘婿の古田重続が
藩内のみで継ぐこととなりました。
その後、明治維新によって
幕府が廃止されると
古田織部の子孫たちは
織部流の普及に
務めたとされています。

 

現在の織部流は、
「織部流古織会」、
「式正織部流(織部桔梗会)」、
「織部流扶桑派」、
「古田織部流(温知会)」、
「織部流毛利派(故新会)」がある。


古田織部の茶の湯を伝えた
弟子には、
土屋宗俊(織部流)、
小堀遠州(遠州流)、
佐久間将監(宗可流)、
上田宗箇(上田宗箇流)、
金森宗和(宗和流)、
安楽庵策伝(安楽庵流)、
本阿弥光悦などがいた。
また諸藩には織部流の茶堂(頭)
が数多くいた。
江戸時代中期に
古田淵黙(中川広計)という
豊後岡藩老職がおり、
これは織部の女婿・古田重続
(中川秀政の老職)の子孫であった。
淵黙は、初め江戸千家の茶を
学んでいたが、
天明8年(1788年)に
家臣・古田正友(代助)を派遣し、
福岡藩の織部流を伝えた
槙宗空(玄蕃)より茶法を
学ばせ自らがそれを修得、
織部流「十一世」を称した。
淵黙は、長府藩の同流の茶堂
・飯田淵恕(茂的)からも
茶法を授けられた。
淵黙の茶法は曾孫の
古田宗関(重名)に
いたるまで伝えられた。
宗関は、明治の初めに
大分(豊後)から東京へ移り、
織部流を一般に教授し、
明治31年に「茶道温知会」を設立した。
門下には娘の古田素春(咲)、
三菱商会の岡崎淵冲(惟素)、
原宗改(鉄石)などがいた。
素春は、宗関が亡くなってから
4年後に没し、孫の辰雄も
その2年後の大正8年(1919年)に
没したため直系は断絶、
温知会は消滅した。

高弟の淵冲は、
松浦心月庵・安田松翁・
石黒况翁ら在京の華族・
知名士等16名からなる
輪番茶事グループ「和敬会」
(後に益田鈍翁・高橋箒庵らが参加)
の会員で、諸流の茶道の点前を研究し、
『点茶活法』という大著があり、
弟子に織部流を教授した。
また、原宗改は織部の
(真行草のうちの)真の点前を考案し
「正式織部本流」を立ち上げた。
宗改の弟子・秋元瑞阿弥(清橘)は
この点前をさらに改良して「
式正織部流」(織部桔梗会)を創流した
(『流祖古田織部正と其茶道』)。
瑞阿弥は、その茶道を京都の
古田家菩提寺・西陣興聖寺の住職
・浅野牧仙(王雲斎)に伝えた
(浅野牧仙「織部流」『日本の茶家』400頁)。
現在「織部流古織会」では
「式正(しきせい)茶式法」が専らである。
「式正織部流」は秋元家を
織部桔梗会会長として、
千葉県市川市を中心に受け継がれている。
また、政治力があった
秋元瑞阿弥は県の教育委員会
に働きかけ、昭和30年(1955年)に
「式正織部流」を千葉県無形文化財
の第1号に指定させた。
一方、牧仙は瑞阿弥考案の
「式正(しきせい)茶式法」
(書院や広間座敷で茶碗台を使用する点前法)
を常としたが、そのほかに
「草庵(侘)茶法」
(利休の露地草庵数寄屋茶法を
武家の様式に改めた茶法)を
加えて両伝とした。
次代の長門玄晃(槐安)の時代に
奥伝として「式正(真)茶法」
(式正数寄御成、将軍など
貴人の前で点茶を行う茶法)
をさらに加えて
「織部伝両伝茶儀法」とした。

牧仙の先代の日種譲山の時代、
元志野流茶道家元の
今岡志満がいた。志満は、
田中伊三次(政治家)や
北尾春道(茶室研究家)に
茶道を教えた。
昭和31年(1956年)に
見中斎米山(中村米三郎)が
「織部流扶桑派」を京都で創流。
中村家は2代で途絶えるが、
現在も尾﨑家が継承している。

平成時代になって
淵冲派の所作を基にし、
桃山時代から江戸時代前期の
茶書に記されている
古田織部在世期の
所作・手順の復元をした
「古田織部流(温知会)」が
古田織部美術館館長・宮下玄覇
によって発足、
100年ぶりに「温知会」が復会した。
京都鷹峯・太閤山荘を
本部として京都・東京・名古屋・
兵庫を中心に教授している。

織部流はほかに美濃久々里
(現岐阜県可児市)の
旗本千村氏に仕え飯田役所の
重役だった市岡家が幕末に
行っていたが消滅した。
長門長府藩茶堂・飯田家より
北九州小倉(現北九州市若松区)
の石橋宗清(児玉宗久の孫弟子)に
伝わった織部流があり、
興聖寺による流儀統一のため消滅した。
その点前を録画していた宮下玄覇が
それを惜しみ令和時代に復興させ、
織部門下・毛利秀元由来の
「織部流毛利派(故新会)」となった。

 

茶道の方は、ほとんど知らないので、

浮ちゃんにおうかがいしましゅたw