どーこだw こうあついとさくらすぐさくねw

今日は、食糧管理法公布記念日
国民の食糧確保、経済安定
を目的とした法律食糧管理法
が1942(昭和17)年2月21日に
公布されたことにちなんで
記念日が設けられております。
施行1942(昭和17)年7月1日
1936(昭和11)年頃より
続いていた食糧不足に
対する諸問題解決のため、
食糧の生産、流通、消費
にわたって政府が
介入して管理するすることで
食料の需要と、
高騰しがちだった
価格を安定させる
ことが目的とされておりました。が、
米は全量政府管理
地主や農家による小作米の販売禁止
など割と厳しい内容でした。
米の輸入開始に伴い
同法律は廃止されておりますが、
一部内容は現行の主要食糧の
需給及び価格の安定に関する法律
通称食糧法
に引き継がれております。

「農業政策(農政)」
日本農業を大きく規定してきた
数々の農業政策を
年代の近いものから
順に並べてみます。
2004年~      「新食糧法」
1994年~2004年 「食糧法」
1942年~1994年 「食糧管理法」

どれも似たような名前ですが、
その中身はけっこう違うのです。
まあ時代によって
食糧事情は異なるから、
当然と言えば当然ですね。
実は「食糧管理法」は53年も
続いているのです。
第二次世界大戦に始まり、
終戦、戦後の貧困、高度経済成長、
バブル崩壊と時代が
激変しているにも関わらず、
同じ制度がずっと続いて
いるのって不思議ではないですか?
ということで、「食糧管理法が53年
も続いたのなんで?」
を追求したいと思います。

食糧管理法に関する
追求を簡単な章立てにしてお伝えします。
1.食糧管理法って何?
食糧管理法は、食糧の確保と
国民経済の安定を目的として、
1942年に制定された法律です。
時代背景として、
1937年の日中戦争以来、
日本ははっきりと戦時体制に
入っていたことが挙げられます。
つまり日本が戦争遂行に
必要な食糧を確保する
ために作られたのです。
この法律が制定されて
どうなったかと言うと、
国家による「食糧の一元・一括管理」
体制になったのです。
まず国家が年度の消費量を予測し、
予想消費量に合わせて
生産を計画します。
そして生産された食糧は、
国家の管理の下、
想定された流通ルートを
通って消費者に届きます。
生産・流通・消費を国家が管理し、
食糧を計画経済下に
おくための法律だったんですね。
ちなみに、ここで言う「食糧」は
主に「米」を指します。
当時は、現在とは比較にならないくらい
「食糧=米」だったのです。
なので、食糧管理法によって
米流通ルートが定まった、
と読み替えることもできます。

2.戦後~経済成長の流れの中で
  変わった食糧状況

「国家による全面管理」と聞くと、
何やら危険な雰囲気もありますが、
少なくとも食糧が不足していた
戦中・戦後の日本国民にとっては、
ある程度安定して食糧を
得られる体制でした
(ヤミ米市場もあったそうですが)。
ただ、時が経つにつれ、
農業技術の発達によって
米の収穫が劇的に増えたこと、
そして日本国民の洋食化が
進行してきたことにより、
1970年代には「米余り」
と言われる時代に突入したのです。
そこでネックになるのが食糧管理法。
先述したように、
その目的は食糧増産と
安い食糧の供給なのです。
農家に増産を促すためには
国家が高めの価格で米を
購入する必要があります。
しかし、米が余って
売れなくなってくると、
当然販売価格を
下げなければなりません。
そして政府にとって
「米の購入価格>販売価格」
の「逆ザヤ」状態が続く
ことになってしまいました。
食糧の安定供給をするための
国家財政負担なら理解できます。
しかし、生産過剰になっても
負担し続けるっておかしくないですか?
「農家の利益を守るため」
なんて聞くともっともらしいのですが、
「そのお金をもっと農業振興
の方に使えないの?」
と思ってしまいます。
なぜ、食糧が不足していた頃の
制度に従ってこんな矛盾のある
支出を続けていたのでしょうか?

3.実は食糧管理法は政治上
の理由で生きながらえていた

さて、この「食糧が不足して
いないのに赤字を拡大しながら
管理体制を維持する」
という妙な状況が続いていた裏には、
「政治家達の思惑」があったのです。
まず、逆ザヤ状態が
拡大したのは1970年代で、
最大になったのは
1974年だという事実があります。
そして、当時の政治状況として、
1972年末の衆議院議員総選挙に
おいて与党(自民党)が敗北し、
野党(日本社会党と日本共産党)
が躍進しました。その後、
1974年の参議院選挙では与野党が伯仲、
1976年の衆議院選挙では
ギリギリ与党勝利、
という流れになっています。
何か動きが符号していますね。
そう、農民票を基盤としていた
与党の政治家達にとって、
得票のために米価を引き上げる
ことが有効な戦略だったのです。
そもそも、日本の農村は全て、
系統農協が強固な組織を形成しており、
その系統農協は農水省が
政策を遂行する際の
末端組織でもありました。
この農水省⇔農協を繋ぐ
役割を果たしていたのが、
食糧管理法によって形成された
米の流通ルートだったのです。
まだまだ日本に農家が多く、
しかも農家のほとんどが
米を作っていたという状況において、
「米の流通を通じて
日本農業を管理・支配する」
という組織構造ができていた
ということです。
ここに手を組んで確固たる
「票田」を得たのが「農林族議員」
と呼ばれる政治家達。
この農林族・農水省・農協
という協力な三位一体構造が
存続するために、
時代に合わない食糧管理法が
維持されたのです。

以上の話を総括すると、
食糧(米)が過剰になった
にも関わらず、
食糧管理法が維持され続けたのは、
a.農林官僚が農業・農村
の管理のために協力な
系統組織の維持を望んだこと
b.総合農協が、経営および
農村組織化の中核になっていた
米の集荷体制を崩したく
なかったこと
c.農林族と呼ばれる
政治家がその協力な系統組織を
集票マシーンとしていたこと
が理由だと言えます。
日本の農業の運命を
左右する農業政策ですが、
正直言って「日本農業の将来のため」
という目線で制定・維持
されているかというと、
そうでもなかったみたいですね。
それもこれも、
「政治は政治家がやるもの」
という風潮がこういう構造問題に
陥らせたのだと言えます。
なので、国民みんなで色々と追求して、
「こうすりゃいいだろ!」
という声を上げていきましょう!
新しい農業は、「誰か」じゃなくて
「みんなで」つくるもの 


この組織構成で、農業を自由に、
運営したいと思っても、
出来ないんでしゅねw
農地を手に入れても、
農業委員会の許可が無いと、
農業が出来ない仕組みが、
今だに続いていましゅw
就農希望の若者たちに、
もっと、自由に開放すればいいのにw
そうすれば、耕作放置の田畑が、
無くなり食料の安定も得られるのにねw
新自由農業組織の設立しなくちゃねw