私が小学校に入学してまもなくの事だった。朝、目が覚めると何か生き物らしいものが

ゴソゴソと見たことのないような動きで畳の上を動いていた。

私は眠い目をこすりながら、いったい何なのかと顔を近づけてみた。


目 ギャ~!!!!な・な・な・んと、今まで見たことのない生き物が歩いているではないか。


これは絶対突然変異の生き物に違いない。その生き物の頭はネズミの頭。手はカニ、身体はバッタ

歩く姿はまるで、戦争映画でよく見る、ほふく前進・・・とにかく気持ちが悪い。 050


すぐに両親を呼びに向かった。走る女の子 興奮した私は「早く来て!来て!ネズミの頭にカニの手が付いていて

身体がバッタの突然変異か新種の生き物が部屋にいるからぁ~」


両親は大笑い でーと。 「ワッハッハァ~お前何寝ぼけているの」

私は「いいから早く部屋来てって!!」


しかし、どこを探してもそいつは見つからなかった・・・・何度も何度も探した・・・・

そしてまた両親は大笑い。「寝ぼけてないで早く用意しなさい。」


どうしても信じてくれない。とにかく悔しかった。実証できないことが・・・・


この話は父が亡くなった17年前まで27年間にわたって笑い話として何かにつけ酒の肴、バカ話として話題にされた。

私は、いつも心の中で「世の中には科学や常識では説明のできないことがあるのに・・・ちくしょ」

と話題になるたび思っていた。


当然、自分の息子や娘には体験談は真実である事を説明した。

チェック 「いいかお前たち。 世の中には見た事ないもの、聞いた事のないもの、触ったことのないものがたくさんある。科学や常識で考えられないことが・・

それを全て存在しないと否定してはいけないぞ。」


本当にお父さんは見たんだから。ネズミの頭でカニの手が付いていて、身体がバッタの突然変異か新種の化物を」子供たちは食い入るように私の話に聞き入っていた。


さすがに我が子たちは信用してくれたらしく、かなり経った今でも友人に話すことがあるらしい。案の定、信じてはくれてない友人に私に言われたことと同じことを言ってやった。と鼻高々と私へいってきたものだった。


話はガラッと変わって


先日、友人十数人と久しぶりに野営場で BBQ 焼肉をした。本当に 晴れ 天気もよく絶好の焼肉日より。

騒ぎ疲れ 汗 酒を飲んだせいか、 ビール ほろ酔い気分で帰りの送迎バスを待っていた。


すると黒チャ~ン(ちなみに私のこと)!!きてきて!!気持ち悪い!!なにこれ??」と友人の叫び声。

急いで駆けつけると、行楽に来ていた周りの人達も群がっていた。

「なんだなんだ!!これなんだ!!本当気持ち悪い!!見たことない!!」と口々に言っている。


私も体を乗り出し目をやった。思わず大声で


「キタァ~!」 右031手


「ヤッタァ~」 ぶるち 065 ぶるち


「やっぱりいたぁ~」 109 


そいつは、ほふく前進をしながら移動をしている。私は興奮した。

そして群がっている人たちに小学校の頃に体験したあの、突然変異か新種の化物に遭遇した話を

得意げに聞かせた。みんなも「世の中には不思議な生き物っているんだねぇ」といいながら、ほふく前進

をしながら移動している化物を目で追いかけていた。


すると、聞きつけたのか周りにいた子供たちが集まってきた。そして地獄の一言。


「あっ!!オケラだぁ!!オケラがいたぞぉ!!」 ・・・サゲ04


私は 逃げる そぉ~っとその場から離れた・・・・・子供の頃からのミステリーが・・・ドコモ絵文字


「息子よ!娘よ!そして知人、友人、親戚、縁者・・・ネズミの頭でカニの手がついていて、身体が

バッタの生き物はこの世にはいません。いる訳が無い、ありえない!!」


逢って話すことは、な・に・か・と・・思うので、この場をかりて報告と訂正に変えさせていただきます。また、この件に関しましては、本日をもって終了させていただきます。ペコリ




クロさんのブログ

べーっだ! かなり久しぶりのブログになってしまったなぁ・・反省、反省 !!


周りから何度も更新するよう注意を受けた。あせる


しかし、元来 日々の在り来たりを書き込む気は最初から無く、自分にとって何か ドキドキ 強く強く感じた事だけを書き込もうと決めていた。


今日まで全く何もそんな出来事が無かった訳ではなく、逆に有り過ぎたくらいだった。


只、残念ながら良い出来事ではなく、極めて悲しい出来事、辛い出来事ばかりで、その事を書く事も出来なかったのは、この狭い釧路、書かれた人の特定は面倒なことでもなく迷惑は掛けることはできない。


そう思ったからで、それがなければ、1冊の本をかけるくらい色々あった。


バレーボール  今回は札幌の娘の事を書こうと思う。


娘に見られたら怒られるかもはてなマーク  でもいいやぁ・・・


先月、札幌の娘(大学3年生)から 手紙 メールが来た。小学5年生から始めたバレーボールだが、とうとう5月の試合で人生最後の試合になるとのこと。どうしても見に来て欲しいと・・・


考えてみると、趣味もなければ、道楽もないつまらない私だが、そう・・11年間も娘には楽しませてもらったなぁ・・勿論、親バカの典型的な私は試合当日、会場へと向かったが、高速が渋滞で1時間遅れで到着。


試合は当然始まっていたが、第1試合はすでに2セットを先取していた。あと1セットで勝利だ。そして3セット目のホイッスルが鳴ったパンチ! さぁ頑張れビックリマーク11年間の集大成だビックリマーク


娘も私が来たことに気づいたらしく、嬉しそうに パー 手を小さく振った。そしてニッコリと微笑んだ。


次の瞬間、表情は一変し、キャプテンを勤めている娘が、一声 !!

メラメラ 「しっかりぃ~・・・」いつも甘えてばかりのくせに・・全く頼もしい。


試合開始だぁ~・・・・・・・・・


しかし、団体競技というものは1人のスポーツでは無くチームプレー。1度崩れ始めるとドミノ崩しのように、あっけなく崩れてしまうもの。

その悪夢が、今まさに目の前で起きてしまった。力の差を見せつけていた1、2セットでは考えられない、正にドミノ崩しのように 3セット・4セット・5セットと・・カタカタ と音をたてて。


そして試合終了のホイッスル

「ピィッ ピィッ ピィ~」


負けてしまった。娘の事が気にかかる。性格を良くわかっているだけに・・

なんて言ってやろうか?・・・「頑張ったなぁ」?それか「良くやったなぁ」・・・うぅ~ん・・


少したって娘が近寄ってきた。私の顔を見るなり声を出して泣き出す娘。チームメイト達が駆け寄ってきた。「大丈夫?今までこんなことないんですよ・・・」とみんなが言葉をかけてくれた。

話すことすらできない娘。

「頑張った頑張った!!」「良くやった良くやった!!」結局2回繰り返す私・・



「菜都美・・・?  最後のバレーでお父さんたちに勝つ姿を見せたかったんだろう?」

コクッ とうなずく娘・・・

「勝つ姿は高校時代にもたくさん見せてもらったよ。だから大学ではバレーを楽しんでる姿を見せてもらいたいんだよ?」


「わかってる。わかったよ・・・・でもやっぱりごめんなさい・・・・」と娘・・・

たぶん娘にとっては、どんな大きい大会よりどんなに大事な試合よりも大切な、私たちの為の最後の試合だったのでしょう。


私は娘の頭を抱きかかえ撫ででいた・・「菜都美の父親でよかった。」とつぶやきながら・・・


その日は娘の部屋に泊まった。

「よっしゃ!!明日の試合の弁当はお父さんが作ってやる。」と私

すると娘が「寮に入ってる後輩の分も作ってあげて?」

翌朝、眠い目をこすりながらせっせっと弁当作り。


「この弁当食べて頑張って楽しむんだよ」と私。

「弁当食べるの試合終わったあとなんだよね」と娘・・・・笑


和やかな感じのまま試合会場へと向かった。

早速試合開始のホイッスル    

ピィ~!!


多少、危ないところもありながらも何とか勝利を手にした。

娘は無くしたものを見つけたような笑顔で「勝ったよ。見たしょ!!帰り道気をつけてね。本当に有難う。」


・・・・私は札幌をあとにした・・・


帰りの途中、娘からメールがきた

「試合見に来てくれてありがとう。最後に勝つところを見せたかったのに、初日、良いところまでいって負けてしまい悔しくて、申し訳なくて大学きて初めて泣いてしまいました。でも、次の試合で勝った姿見せれてよっかったです。・・・・・・省略・・・・・・


11年間本当によき理解者でいつも支えてくれて心から感謝してます。バレーで経験したたくさんの良いこと、辛いことが今後の人生に絶対生きてくると思います。


黒田家に生まれてきたことを誇りに思ってます。気をつけてうんてんしてね・・


絶句だった・・・・

パーキングで返信した

「11年間ご苦労さま。たくさん楽しませてもらいましたよ。」

「お父さんも会社経営していると騙されたり、裏切られたり、色々人には言えない辛いこと、悲しいことがたくさんありましたよ。」


「そんな時、救ってくれたのは菜都美のバレーでした言葉にできない位の元気をもらってました。」

「こちらこそお礼を言いたいです。11年間楽しませてくれてありがとう。」

「これからは、バレーに費やした時間を遊びや好きなことをたくさんしなさい。多少悪いこともいいとおもうよ。」・・・・・・省略・・・・・


「お父さんも菜都美の父親であることを誇りに思ってます。」


バレーと言うスポーツをパイプに我が子から教わることが多い11年間でした・・・

ちょっと寂しい気持ちだが、本当に成長した我が子を感じ、私の中では決して成長しなかった、本音を言うと大人になって欲しくなかった、小さいまま、子供のままの無邪気な娘を心の奥にしまうことにした。・・・


本当にお疲れ様・・・・・楽しみを心からありがとうと言いたいと思う。




クロさんのブログ











老人 私の母は現在、市内の介護下宿にお世話になっている。まだ痴呆でないので下宿なのだが何と言っても88歳。

足が悪く一人では色々とできないことばかりで、結局ヘルパーさんの力添えをかりざる得ない状態である。あせる


昔は足腰に加え、口も達者な母親だったが15年前に父が亡くなってからは、あれよあれよと驚くほど弱ってしまった。 夫婦とは本当に強い絆で結ばれているものだ。


私の父は私が幼少の頃から、、私が高校を卒業するまで、心臓が悪く全く働くことが出来ず母のほんの少しのバイト代と生活保護給付金、そして夏休み・冬休みの私のバイト代で生計を支えていた。確かに貧乏で恥ずかしい思いも随分としたが、寛大な父母の愛情と教えは尊敬に値する。確実に今の私を支え、そしてまた私の子へと受け継がれていくのだろう・・・


生前、体は悪いが頭だけはすこぶる良い父は、いつも母に指令をおくり母はそれを忠実に実行する・・・そんな状況が何十年もつ続く毎日の中、突然父が他界してしまった。司令塔を失ってしまった母は、その日以来あまり行動を起こさなくなり、やがて足が弱り、気力もなくなり、今に至ってしまったのだろう。  今まで何か楽しいことが一つでもあったのだろうか・・・・涙目


現在は家内と交代で母の買い物、病院、薬局、美容室、掃除などなどをやっている。家内は文句の一言も言ったことがなく本当に良く尽くしてくれる。生前の父にも本当に良くしてくれた。ある意味、他人の父母にここまでどうして優しくしてくれるのか・・ただただ、感謝、感謝に尽きる。


と簡単に言っても本当に本当に大変である。こちらの都合など全く関係なく、容赦なく電話で頼みごとをしてくる母。体が自由にならないイライラから、すぐに行かなければ、淋しいのか寝込んだりもしてしまう。当たり前なのだろう88歳にもなれば。   しかし身体は勿論だが精神的にやられてしまう。


以前、私がすごく忙しかった次期のある日のこと。、いつものように母からの電話・・・「すぐ来てもらえないか?」と母。 「 どうしても今日じゃなければダメなのかぁ?」と私。

「本当は、今来てくれたら助かるなぁ~でもいいよ、いそがしいんだろう?」と母。内容を聞いても話さない。


どうしても気になり、取引先との打合せ時間を変更して母の所へ行くことにした。


「かぁさん?どうした?」   母は満面の笑みで「来てくれたんだ、仕事は順調かい?昌ちゃんや子供達は元気かい?もう少ししたら友達が遊びに来るんだけど、お茶が切れてしまって・・・・」


次の瞬間、実の息子が決して言ってはいけない言葉を私は・・・・発してしまった・・・・・・


「ふざけるな!!このくそ忙しい時に仕事の邪魔しやがって!!」

「そんなくだらないことで俺を呼びつけて、俺達を苦しめて何が嬉しい?」

「かぁさんの介護下宿の支払いするのに必死で働いてるのに・・・どうして・・・・どうして」


優しいと思っていた息子の言葉にショックを受けたのだろう。母の目から涙・・・・・「本当は無性に顔がみたかったんだ・・・ごめん」



私はそのまま、下宿を後にした・・・・・母が最後に言った言葉が耳から離れない・・・

車の中で頭をよぎるのは私が幼少の頃の母の姿ばかり。


冬の銭湯の帰り凍った私の髪の毛に息を何度もかける母・・・山菜を取りに行って母とおいしい手づくり弁当を食べたこと・・・私の友達が遊びにきたら、必ずカレーを作ってくれる母の後姿・・・・


涙がとめどなく出てくる。好きで老いたのではないのに・・拭いても拭いても。

涙の数が罪への数であり後悔の量を物語っている・・・・


よっしゃ!!!


次の日からどんなことがあっても怒らない、電話が来なくても定期的に顔を見せに行こう と堅く誓い、今もそれは続いている。


そして母の元へ行くときには、私が自分で漬けた漬物を持っていくことにしている。

とは言っても糠床を買ってきて、だだその中に大根、キューリ、ナスなどを入れて1~2日入れておくだけのインスタント漬物である。


今は、「世界一の漬物がなくなったよぉ」と母から電話がはいる・・・・


そして私は「世界一の漬物もってきたぞぉ~」・・・・・・・


クロさんのブログ

勘違いするな!!今の自分があるのは親のお陰!!

親が老いたのは私達を一生懸命育てて苦労をしたから・・・・・


そう思っています。