私はアルジュナでありたい。
私、アルジュナは人生というゲームのプレーヤーにしか過ぎず、私はそれを観賞しているだけである。
ゲームと考えたら、ハプニングという苦難もないと退屈だし、それも全て経験であるとわかりやすい例えをしてくれた。
経験は『私』実感するためのヒントであり
だから私という、観賞しているだけの私が『私』なのだ。
ともう1人のクリシュナ様に教えてもらった。
一方、加害者意識になること、嘘をつかない、自分に正直に生きること、私の中にすべてある…etc
クリシュナ様に実生活のたくさん教えてもらっている。
まだまだ自分を振り返り、気付きばかりの日々であり、知識と得るという旅は始まったばかりだと思う。
私、アルジュナはクリシュナ様という友人であり、教えを頂いている尊敬する師から実生活の中でわかりやすく知識を教えて頂き、知識の理論はもう1人のクリシュナ様に教わりという有り難い環境で知識を得ている。
今日はクリシュナ様に、人が言った意見を『あの人はこう思っているのであろうかではないか』という話をした。
その中で私はクリシュナ様に思った疑問も投げかけてみた。
疑問が出てきた時に不安という、最近にない気持ちも生まれてきた。
クリシュナ様はそんな私の感情を瞬時に察したのであろう、今回のクリシュナ様ともう1人のクリシュナ様とのお勉強会をここから始めてくれた。
『アルジュナは人の意見と言って、自分の気持ちを言っている。』
とクリシュナ様は言った。
『どういうことですか?』
『アルジュナは素直で純粋だと思う。でも相手の気持ちになって考えているつもりだけで、自分の意見を言っているだけ。相手の気持ちを察するには、自分色は消して相手の気持ちになって話しを聞いてみる。そこで相手の気持ちになったら、相手よりも相手の気持ちがわかる。だから私はアルジュナの考えていることがアルジュナよりもよくわかる。』
その時、私は自分の推測でしか相手のことを考えていないことがよくわかった。
そして不安にも答えてくれた。
『アルジュナにいつか話したことあるでしょ。
信頼とは信じて頼ること。バガヴァットギーターの中のクリシュナも全ての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。と言っているでしょ。アルジュナに猜疑心があるのは、今まで本音で生きていないから、人にも猜疑心を持つ癖がついてしまったのね。
猜疑心を無くすには、私というクリシュナを全面的に信頼することじゃない。』
相手の内側に入り込ます、自分の考えで相手を推測し、私には信じる力がまだ足りなかったと原因がわかると不安が少しずつ消えていく気がした。
そしてまた話していると、どうしたらいいのかわからなくなった。
色々なお話をしてくれるが、遠くで話しているように感じたりする。
これも、信頼を出来ず、また猜疑心なのであろうか。
クリシュナ様に全てを帰依するアルジュナの気持ちを探そうとバガヴァットギーターを開いた。
たまたま開いたページは第4章だった。
そこには、
信頼を抱き、それに専念し、感官を制御する者は知識を得る。知識を得て、速やかに最高に静寂に達する。
知識なく、信頼もせず、疑心ある者は滅びる。疑心ある人には、この世界も、他の世界も、また幸福もない。
今の私はアルジュナでありたい気持ちは間違いないだろう・・・
何故なら、アルジュナはクリシュナに全てを知識を与えてもらえるのだ。
このままではいけない。それだけはひよっこの私にでも理解できる。
揺ぎ無い決意をする勇気が欲しい。