「禅に聞け」 澤木興道老師の言葉 | アナハータ デヴィスリのブログ

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気ままに書いている日記です♪

 

以前「禅に聞け」を編集されたの櫛谷宗則氏の座禅会に参加したことがありました。

 

禅については深すぎて、なかなかコレというものが解りづらかったので

 

「禅に聞け」という題にひかれて読んでみました。

 

何かが解ったというでもなく

 

耳の痛い言葉も多々ありますが加えて

 

心根に沁みる言葉の数々、抜粋してみました。

 

仏道や神道を歩いている訳ではないけれど、

 

言葉の力に心眼の曇りが拭われることもありました。

 

何度も読みかえしたい箇所を、引用してみるとけっこう多かった。

 

誰もが仏性をもっているのに、

 

「覚悟が出来てない」「凡夫だから」という言い訳で

 

無明の迷いに甘んじていることはマズイのではないかと

 

「坐禅」もまた歩きだした「見えない道」

 

日々の糧としたいと思いました。

 

 

以下、抜粋

p10

野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうとして鳴く訳でもなく

花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。

坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。

-みなただ自分が自分を自分しているのである。

p11

宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しい自己に生きることである。

p11

いっさい衆生は唯我独尊じゃ、

自分が自分を生きるほかはないんじゃ。

それをどうして見失うたか。

p12

天上天下唯我独尊を、自分において実現するのが、仏道である。

p15

仏道とはよそ見せんこと。

そのものにナルキルことである。

これを三昧という。

中略

菩提心をおこすとは「よそ見をやめる」ことである。

p17

現実、現実というが、この現実にだまされて大騒ぎしているのである。

p17

見わたすかぎり自分ぎりで、自分でないものは何もない。

中略

三昧とは自分ぎりの自分であり、自性清浄心である。

坐禅だけが、自分ぎりの自分であることができる。

p18

われわれ誰でも世界と一緒に生まれ、世界と一緒に死ぬ。

めいめいもってる世界は違うのじゃ。

p22

群集心理とはオカシナもんで、何もわからんなら黙っておりゃいいのに

何もわからんところにブラ下がってやりおる。

-自己のないことおびただしい。これを浮世という。

p23

「在家の出家」とは、在家でありながら在家のグループ呆けしていない人間のことである。

p26

晴るるかと思えばすぐにさみだるる

あなおそろしきわが心かな 

-この自分の心をどう始末したらよいかが問題である。

p26

こうゆう人生を、仏さまの教えによって、どう始末してゆくかが仏法である。

p70

✧みな胸算用で忙しゅうて仕様がない。これをヤメルのが坐禅である。

✧坐禅は人間の一切の錯覚からゴメンこうむることである。

✧坐禅は宇宙いっぱいとスイッチのつく法である。

p71

安心がのうてする坐禅は坐禅ではない。

p78

ところが仏法は凡夫にあるべき法ではない。

p81

坐禅は人間の修養ではない。

人間の廃業である。

p82

坐禅してよくなると思うておる。

そうじゃない。「よしあしを忘れる」のが坐禅じゃ。

p84

仏法が宇宙いっぱいなのは、無所得だからである。

p85

「坐禅をすると」妄念が起こります。と言うてくる人があるが、そうじゃない。

坐禅をすればこそ妄念がおこっているのがよくわかるのだ。

p87

坐禅は仏と凡夫の統一である。

その仏の目でみればこそ、本来自分が仏であるにしては、

あのあそこがお粗末だということがようわかるのである。

中略

妄念を気にするのは「凡夫」が気にするだけである。

中略

グズグズ言うな。よそ見せんと、ただ坐れ。

p91

うっかりと立脚地をさだめてはならぬ。

p93

われわれが道を追うのではない。

仏道からわれわれが追いかけられているのである。

p97

坐禅の外に、向こうに仏やサトリを置いて、

これを追いかけるなら、すべて神我外道となる。

p98

修業してさとりをひらくのではなく

「修業」がさとりなのである。

一歩一歩が目的である。

p101

迷いと言うても悟りというても、人間沙汰である。

悟りと迷いを分別するのじゃから、人間の沙汰である。

p119

われわれはウマイとかマズイとか好き嫌い、良い悪い

―みんな二つあると思うている。

それでは本当に二つあるのかと言うと本当はそうではない。

実物は一つである。

そうしてしかも、その一つも空である。

p139

だれでも仏性というベットで寝ておりながら、

いろいろな迷いの夢をみているだけである。

p142

人間をちょっと一服したのが仏じゃ。

人間がエラクなったのが仏じゃないぞ。

p143

「一切空」というのは、つきあたらず、ナントモナイということである。

ナントカあるというのは、何かに酔わされているのである。

中略

いつもどんなことでもナントモナイのがアタリマエ。

このアタリマエをとり失うてるのが迷いである。

中略

「敗けることなし勝つことなし」ということが大切じゃ。

p144

「こうして、こうすりゃ、こうなるぞ」というのは、

娑婆の話で、仏法ではない。

p145

神も忘れた神、神さえ失ったところに、真の神がある。

p149

仏道がカタになったらおしまいじゃ。

p163

仏法はただ自分でやるよりほかはない。

p167

仏法というものは理念ではない。

「自分というものの扱い」が問題である。

p176

自分というものは自分をもちこたえてゆくことはできない。

自分が自分を断念した時かえって宇宙とつづきの自分のみとなる。

p177

仏道は自己の仏性を信ずることである。

p178

心身脱落と言うたって、ただ「おれがおれが」ということを捨てるだけじゃ。

p178

無心とは必然に反抗せぬことである。

つまり宇宙とのつづきに服従することだ。

宇宙とのつづきで働くことである。

p190

道というものは「人に聞く」ものでなく

「自己に立ち帰る」ことである。

p198

仏法は久遠を今、行ずるのである。

p201

菩薩とは道を求める凡夫である。

p212

非思量の中には、凡夫も仏もありはせん。

この非思量を実修実行するのが坐禅である。

p214

仏法とは「無限」ということを説くのである。

それは「はかりしれない」がゆえに

文句なしにいただくよりほかはない。

p217

安楽とは追っかけることをやめたこっちゃ。

p223

すべての行儀の根本は「最後まで送りおどける」ことである。

 

 

 

 

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