坐禅をするにあたり「禅」のいうところの「事実」というものを
確かめる必要があって、鈴木大拙 (著)「禅学入門」を読んでみました。
引用していて思ったのは、様々な思想の美しい舞の一つとして「禅」という「思想」の範疇に入らない舞があって
その舞が好きかどうかと問われると「坐禅」というアプローチや
「思想」の範疇に入らないというところは好きなのですが、
「禅」の命がけ的な修業(組織的訓練)は重いし、
(たまに体験で行くには良いのですけど)
「公案」にいたっては、
思考を停止させて、アハ体験を狙ったものなのか?
印可という査定の為なのか?
物凄く廻りくどくて、よく解らない。
抜粋は「諸論」から「禅とは何か」へ続く
取りあえず「諸論」より抜粋
p14 人間の言葉が禅の深遠な真理を表明するには不適当な器官であり、かつ禅は理論的解釈の問題ではない。
中略
ゆえに禅にあっては個人的経験を以って一切とする。
(真理というものはそういうモノだと思う)
p15 すべての概念の基礎は単純、かつ偽りのない経験があって、禅はこの基礎経験に最大の強調をなすのである。
(事実というものを指すのか?)
p16 仏教徒はこうした超自然の働きを認めない。
(仏陀の教えが科学的と謂われる所以ですね)
ゆえに禅の精神的訓練法は実際的で、かつまた組織的であるのである。
p17 禅は一方において高度に思索的であると同時に
中略
日々の実践的生活の事実のなかに顕されている禅の抽象的性格を忘れるのであるが、そこに却って禅の真の価値が窺われるのである。
中略
p17 禅の眼を以ってすれば、最も実際のことが、最も意味深長なのである。
p19 神の沈黙である、
中略
これはまた、相反する電流の閃光と轟音の最中に得られるところの「雷鳴の沈黙である」
(雷鳴の沈黙を観るために、台風になったら公園へ行ったりする)
(地下鉄で雷鳴の沈黙を観ることが出来ないのは、単に軟弱なだけ)
p19 印度人は神秘的である。
しかし彼らの神秘は余りに思索的
余りに沈黙的(サマタ瞑想をして来たのでココ課題)
そして余りに複雑的である(同意)
中略
これに反して東方の神秘は直接で、実際的で、また驚くべき程簡単である。
↑
密教系やインド哲学などの難解で複雑な系統は、
意識は何でも創りだすことが出来るので
妄想に近い意識が織りなすアクロバットのように感じます。
それはそれで凄いというか素晴らしいと思うし
宗教儀式などは、研ぎ澄まされた芸術のよう。
文化としての偉大な価値がありますね。
ー「禅とは何か」へ続くー
(禅と道教の違い)
本書とは関係がないけれど、気になったのでネットで調べてみました。
不老不死はともかく、やっぱりタオってよいな。
↓
道教は哲学と宗教の両方として定義されます。
中国語では、「Tao」という用語は「道」または「道」を意味します。
タオは存在するすべてのものの原動力であると考えられています。
それは宇宙のすべての生命体を通って流れ、すべての生き物を結び付ける力です。
道教の目的は、人が「道教」と調和的に同調すること、すなわち人生の正しい道をたどることによって不死を達成することです。
同様に、禅仏教は、個人的な、精神的な発達と人生の本当の性質を理解する能力に基づいている「生き方」を強調しています。
禅は「悟りの道」の教えを実践するマハヤナ仏教の一形態です。その教えは純粋な心の状態を強調しています。
それは人の真のそして本質を実現するのを助けることができます。
しかし、Mahayana(Zen)仏教の目的は瞑想によって悟りを開くことです。
https://ja.natapa.org/difference-between-taoism-and-zen-1956
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