「お城から知らせをもらってな」村長はレックスの盃に飲み物を注いだ。

「無事、つとめを果たしたことは聞いておった。いやはや、山の精霊さまの予言は確かだ」
 ほれ、と盃を渡してくれながら、村長は、まぶしそうにレックスを見た。
「いやはや、立派になったのう。おまえは、ライフコッドの誇りだ。

……でな……コホン。ひょっとしてなおまえ、次の村長になる気はないか?」
「ありがとうございます」レックスは答え、一口すすった。

王の蔵の酒に比べれば、素朴で酸っぱかったが、度数だけは強そうだった。

「そんなふうに思ってもらえて、俺、嬉しいです。俺のいない間じゅう、

ターニアによくして下さったことにも感謝しています。……でも」
「待て! 誤解してくれるなよ!」村長は両手をあげた。

「これはうちのはねっかえりをもらってくれという意味ではなくてだな、

わしもそろそろ年だから後継者がほしいという……

いや。まぁ、正直なところ、ジュディの婿になってくれれば、こんな安心なことはないんだが」
「……俺は」
 レックスがまっすぐ目を見ると、村長は戸惑ったように笑顔を消した。
「俺は……また行かなければならないんです」
「なぜ?」村長はすっとんきょうな声をあげた。

「魔王は倒したんだろう?」
「ええ」レックスは口ごもった。ムドーのほかにも、恐ろしい敵がいるらしいなど白状すれば、この、見かけによらず責任感のある人のせっかくのこころの平和を、だいなしにしてしまうことになる。
「そうか、わかるよ。無理もない」村長は酒をあおると、自分でまた注ぎたした。

「あのランドでさえ、こんなへんぴな山奥の村で一生を終える気になれないらしい。

魔王を倒すほどの若者なら、どこにでも行ける。なんにでもなれる。

レイドック王も、お前のことをさぞかし高く買っておられるに違いないしな」
 そんなことじゃないんだ……!
 レックスは盃を握りしめた。
 ライフコッドを嫌ってなんかいない。山の暮らしをつまらながっているわけじゃない。

だけど……だけど。
 俺は変わった。俺はもう、ここのみんなの知っている、陽気で働き者のレックスじゃない。

村で一番大きなカボチャを作って見せようをがんばったり、

野牛を追って崖から落ちそうになったり、ジュディの流し目にどぎまぎして眠れない夜を過ごした、

俺はもういない。
 そして、俺には……しなければならないことがある。
「すみません」盃にへばりついてしまった指をやっとの思いで引きはがし、

レックスは両手を膝に置いて、深々と頭を下げた。



「ターニアを……どうか、頼みます」

 おずおず馬に話しかける妹に優しい目をして応えてくれているファルシオンに感謝しながら、

レックスは脇に置いてあった袋の中から、緑色の毛玉を取りだした。
 ファーラットは、いじけて拗ねた様子で丸まっていたが、

レックスの手の匂いを嗅ぐと、逃がすもんかと言わんばかりに爪を立てて飛びついてきた。

みゅー、みゅー! と、さかんに抗議の声をあげる。
「悪かった」レックスはむくむくの毛皮を抱きしめた。

「もうこんなことしないから」
「まだ何かいるの?」ターニアが腕の中を覗き込む。

「猫ちゃん? ……あっ」
 ふぁああああっ!
 気を逆立て、ちいさな牙を剥きだしにして唸るファーラット。

真っ黒な円盤のようになってギラギラ光る目、威嚇するように跳ね上がった尻尾。

だが、レックスの胸にしがみついた爪は、怯えにぶるぶる震えている。
「そうだ。魔物だよ」しゃがれた声でレックスは言った。

「でも、こいつは、俺をとても慕ってくれているんだ」
 魔物使いとしての道を行くがよい―――

ダーマの預かり手の言葉が胸に蘇った。敵であったものたちをも、仲間として迎え入れよ―――。
 ターニアはじっとレックスの目を覗き込んでいたかと思うと、

真剣な顔つきのまま、魔物に向き直り、そっと指を近づけた。

ファーラットは大慌てでレックスの胸にくっつき、ますます毛を立て、しゅうしゅう息を荒げた。

シャアッ! と牙を見せられて、とうとうターニアが手を引っ込める。
「大丈夫だよ」レックスは魔物の背中を掌で撫でながら顔を寄せ、そっと優しく言い聞かせた。

「俺の妹だ。怖くない」
 ファーラットの唸りが低まり、ヤマアラシのようにとがっていた毛並みがぺしゃんこになる。

みゅう……自分でも当惑したように、ファーラットが鳴いた。
 レックスは妹にうなずいて見せた。
 ターニアがもう一度、おずおず指を差し出した。

魔物は横目でちらちらレックスを見てから、ちょっと顔を伸ばし、

指の匂いを嗅ぎ、それから、そっとそこを舐めた。
「……うふっ、くすぐったぁい!」ターニアは嬉しそうに首をすくめた。

「おりこうちゃんね。モコモコしててかわいいわ。この子なんて言うの?」
「ファーラット」
「おにいちゃんたら。それは種類の名前でしょ。名前、つけてないんなら、あたしが決めてもいい?」
「ああ」
「じゃあね……モコモン。この子は、モコモンよ」
 みゃった。了解した、といわんばかりにファーラットが答え、もぞもぞした。

出してくれ、あっちにいかせてくれ、というように。
 小さな魔物を受け取ると、ターニアはその緑色の毛に頬を埋めてにっこりした。
「さあ、言ってらっしゃい、おにいちゃん。

おにいちゃんが帰ってきたことは、きっと誰かが知らせているわ。

村長さん、きっと、待ちくたびれているわ」

「……おにいちゃん!」

ターニアは、レックスの顔を見るなり、首っ玉にかじりついてきた。

「ああ、うそ! ほんとのほんとに、ほんもののおにいちゃんなの?」
「俺だよ」
 レックスは早くも泣きべそをかきだした妹の頬から、髪を払ってやった。
「元気そうで良かった」レックスは言った。

「ずっとひとりぼっちにさせてごめんな」
「ううん、そんなこといいの」

涙だらけの顔に気丈な笑顔を作ると、妹は、改めて腕に力をこめた。

「ああ、おかえりなさい! 嬉しい!」
 心づくしの夕食は、暗くなりかけていたレックスの気持ちを優しく満たしてくれた。

狭いながらも居心地のいい我が家の特別の匂い。

すすけた梁も、曲がった柱も、昔自分で作ったガタつく椅子も、なにもかもが懐かしい。
 素朴に分厚いテーブルの向こうから、

祈るように組んだ両手に身を乗り出すようにして、

ひたすらに自分を見つめ続ける妹の黒い瞳は、暖炉に燃える炎を映して温かく輝いている。
「ねぇ、みんなが言っていたことはほんとうなの?」
 食事が一段落すると、ターニアは訊ねた。

「おにいちゃんたちが、魔王を倒したって。だから世界は平和になったんだって」
「うん」レックスはうなずいた。

「最初のほうはほんとうだ。でも、後のほうは、まだはっきりしない」
「すっごーい!」感激に上気した頬を両手で押さえたターニアの耳は、

不吉なほうは、どうやらすり抜けさせてしまったらしい。

「うちのおにいちゃんはすごいんだって、あたしはずっと前から知ってたけど、そんなにすごいなんて、すごいわ!」
「いい仲間がいたからだよ」くすぐったさに、レックスは目を伏せた。「今度紹介するよ」
「ジュデイなんかもう大変よ。あたしの『彼』は伝説の英雄だから、

なんて、まるで自分が偉いみたいに得意がってるの。

ランドにプロポーズされても、近頃じゃ、聞こえないふりしてるみたい……

あっ、そうだ! そういえば、村長さん家に行かなくていいの?」
「ああ」レックスはナプキンで口を拭き、椅子を引いて立ち上がった。

「行って来なきゃと思ってたんだ」
「片付けておくわ」ターニアも立ち上がった。
「ありがとう。あと、もし平気だったら、世話してやってほしいやつがいるんだけど」
「あの馬ね、わかったわ」ターニアは笑顔でうなずいた。