また単位認定試験の時期がやって来てやっと受験を終えました。


今期の学びは、グリーフのサポートと死生観についてでした。



グリーフ(grief)とは原語が英語で『悲嘆』と訳され大きな悲しみを意味するもので、大切な人やものを喪失した時に起きる反応の総体だそうです。


私の場合、夫や親が亡くなる、住んでいた実家や見慣れた景色が無くなる、可愛がっていた犬(今はペットを伴侶動物と呼ぶそうです。わが家の先代ワンコもジュニアも番犬でも愛玩動物でもなく、まさに私達家族のコンパニオンドッグだなと思います)が亡くなるなどが、大きな悲嘆になってい ると思います。




私の夫が亡くなった時、夫婦のどちらかが先に亡くなるというのは避けられないことなのに、皆はいったいどのようにして不安や哀しみを乗り越えたのだろうといつも思っていました。


大切な誰かを失った後も何事もなかったかのように暮らしている様に見える人達の心の内を知る術も持たず、それが大きな謎となっていました。



夫と父親の葬儀で二回喪主として務めた私は、葬儀で200人近くの参列者がいて法事の度に親戚を呼んでいた夫の時より、コロナ渦中で妹と息子と娘と私の4人で見送った父の葬儀や両親の永代供養をお寺に頼んだ 方が心は軽かったです。


夫の時は悲しみも癒えていない状態で、四十九日までの 七日ごとのお参りや、百ケ日、一周忌に三回忌と立て続けに 行われる法要の手配を一人でしなければならなかったことが私には負担でしかありませんでした。


予期せずに突然に配偶者を亡くした場合と、数年のサポートの後に親を亡くした場合では悲嘆の深さが違うのだろうとも思います。


夫の死後、何年過ぎても強度の悲嘆反応を持続していた私は『複雑性悲嘆』の状態だったのかなと思いました。



『複雑性悲嘆』とは近親者の突然の死などにより悲嘆反応が通常6か月以上続き、社会生活や日常生活に影響を及ぼしている状態を言うそうで、『複雑性悲嘆』を精神障害と見なすかどうかは専門家の間でも意見が分かれているようです。



自死や震災などで突然に身内を亡くした人達の自助活動グループの代表者の方のインタビューがインターネット配信の授業の中で放送されていましたが、「ある日突然、 大切な人を亡くす」という状態で6か月以内に悲嘆反応が無くなる訳がないと私は思いました。


例え悲嘆反応が6か月以上続いたとしても、それは正常な反応ではないのか。


悲嘆の反応において、なにが正常でなにが異常なのか自分では判断がつかないけれど、それを他人に決めつけられるのも何か違う様な気がしています。 



死別のグリーフのサポートとして、葬儀や年忌法要などの宗教的年周行事への積極的参加が死別体験者に好影響を与えるそうです。


四十九日というものも、自分の中で区切りをつけてくれるものの様に思います。


 単純な喪失と複雑な 喪失を一緒にできないのなら、夫と父の葬儀を同列に語ることはできないのかもしれないと思いました。





そして印刷教材の子どものグリーフサポートについての章を読んだ時、子ども達の父親が亡くなった後、私は子ども達を適切にサポートできていなかったのではないかと思いました。


息子も言われていたけれど、他人が子どもに対してかけがちな「これからはあなたがお母さんを支えるのよ」という様な言葉は、言った本人は励ましているつもりでも、ヤングケアラーをうんでしまう原因にもなるそうです。



死別後の子どもの反応は百人いれば百通りであるという理解のもと、子どもの語りの傾聴での心得として「アドバイスしない」「励まさない」「意味 づけをしない」「決めつけない」というのがありましたが、私は子ども達に何かあれば直ぐにアドバイスしようとするし、励まそうともするし、起こった事に対して意味づけをしたくなるし、子どもの気持ちを決めつけてしまいがちです。


この心得は子どもに対してだけではなく、大人にも言えることだと思いました。




それから、外傷を受けた後に人間的な成長をすることはあっても、すべての人に成長が見られる訳ではなく、成長が見られるから苦痛や苦悩を経験していない訳でもなく、人間的成長のために悲劇や喪失の経験を望ましいものと捉えられるべきではないという内容は、身につまされるものがありました。




また、生きているけれど人格が変わって別人の様になってしまい、以前の様に家族として生活できない親の認知症の様な状態の「別れのないさよなら」や、大震災などの行方不明者の様に遺体は無いのに亡くなったとされる様な状態の「さよならのない別れ」は、『あいまいな喪失』と言います。


『あいまいな喪失』は「はっきりしないまま、解決することも、終結することもない喪失」と定義されています。




生きているのか死んでいるのかも分からないまま役所の通知で知った実母の死も、私にとっては『あいまいな喪失』になるのかなと思います。


ただ実母には愛着も依存も無かったため私は悲嘆を感じることは無かったと思っていたけれど、逆に実母は私と別れたことが大きな悲嘆だったかもしれないと考えると少し胸が痛いです。


これは実母を失った喪失の痛みではないのか?



先日、家庭裁判所から『相続放棄申述受理通知書』が届いた時には、これで全てが終わった様な気がしていました。


しかし、実母の気持ちをふと考えてしまう時、何も分からない今では全てが私の想像でしかなく、その度に「これでよかったのだ」と思うことにしていても、同時に「本当にこれでよかったのか」という思いもわき出てしまいます。


あいまいな喪失は、無理に解決を目指すのではなく、レジリエンス(喪失の痛みと不安に耐える力)を高めていくことをゴールにするそうで、 それには時間が必要だと考えます。




今回の学びも私にはとてもタイムリーで有意義なものでした。



誰もが経験する喪失や悲嘆について、これからも考えていきたいと思っています。