シュタイナーの教育術について学んでいる時、産業革命後の学校の教育は、西洋やアメリカのみならず日本でも、大量の均一な近代的労働者の養育や規格化された社会制度への人々の適応のために、整備されたと知りました。

それに異議を唱えたのがシュタイナーでした。



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【シュタイナー教育】とは、ドイツの哲学者・教育学者ルドルフ=シュタイナーが提唱・実践した教育で、1919年にシュトゥットガルトに開いた自由学校に始まる。1920年代の自由主義教育の流れを受けた、子供の自主性を尊重した教育。
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大規模な学校で大人数の児童が、同じ内容を一斉に教室で学ぶという学校のかたちを造り出したのは、国民が平等に学べる環境をつくることが起源だったのではないか?と私は勝手に想像していました。

私が教育について学ぶ前に、(教育とは一般に「相手をより良くしようとする意図をもって働きかける営み」のことを言うけれど、それは「社会で使える形の揃った人間を、教育によって大量生産すること」とは違うはず)と考えていたのは、そういう学校教育の中に違和感を感じていたからでしょう。

でも、自分が違うはずと思っていたものが違ってはいなかったと知って、(工場で生産される様な均一で規格化された発達をする人間などいないのに、それをモデルにしようとしたからこそ『定型発達』という言葉が出来たのか?)とさえ思ってしまいました。



私は自分が受けた教育と、自分の子ども達が受けた教育しか知りません。

そのメリットやデメリットについても、結果論でしか語ることができませんし、自分の子どもに合う教育方法を探したのも、息子が学校に行けなくなってからのことです。

私や私の子ども達の子ども時代より、今は色んなものが進んで工場はどんどん機械化され、将来はAIが人間の仕事を奪ってしまうだろうとも言われており、コロナ禍もあって、教育方法もずいぶんと変わりました。

私の住む市内でも、小中学生全員にタブレットが配られたそうです。

息子が大学生になってから、自分を助ける道具として自力で買ったタブレットが、今や義務教育の中で当たり前に使われる時代になったんだ…、と思いました。

でも、私達が受けた義務教育の時代に、板書を書き写すのが苦手な子がいた様に、タブレットでの学習に適応できず、置いて行かれる子もいるんだろうな…と思います。



教育方法が変わることで恩恵を受ける子もいるでしょう。

けれど、どんなに変わろうとも、均一とか規格化とかにも通じる『みんな同じ』ことこそが平等な教育だと捉えている限り、学校や社会の問題は無くなりはしないのだろうと思います。