宮澤賢治と法華経についての

ご紹介〜その3


宮澤賢治は有名な作家ですが


この度の地震はびっくりしたな!


皆様のトコロはご無事だったでしょうか?

これ以上の被害が起きませんよーに

お祈り申し上げます🙏


賢治さんも、明治三陸地震と共に生まれて

昭和三陸大津波と共に亡くなったとゆー

地震と相性の良かったヒトみたいだけど


そーゆー賢治さんについてダラダラと

書いてますけど


よろしければ読んでみてください🙏



🟦一人暮らしするどー!


🟦30歳になった(1926年大正15年)3月

賢治さんは、やるコトがあるからと


52ヶ月お世話になった花巻農学校を

スパッと退職して


🟦その年の3月31日


花巻の実家からちょっと離れたところの

下根子桜とゆー高台にあった


宮沢家の別邸で一人暮らし

はじめた🏠


🟦当時の別邸の場所は更地になってて

詩碑が建っているよーだけど

観光地になってるみたい


写真はコチラからお借りしました👈


雨ニモマケズの詩(高村光太郎の書)

が石碑になっているよーだ


石碑からは「下ノ畑」とかを

見渡すコトができるのでいいな👀

写真はコチラからお借りしました👈


賢治の命日の9月21日には

この場所で賢治祭が開催されていて


詩の朗読や、野外劇、座談会などが

行われているらしいけど


最近は新型コロナの影響でやってないみたい


賢治祭のコトはコチラ👈


🟦別邸について🏠

🟦別邸があるあたりが

宮沢家はお金持ちだなーとおもうけど


ここは、おじいさんの喜助さんが晩年に

養生したり、妹のトシさんが療養生活を

送った家で🏠

写真はコチラからお借りしました👈


🟦別邸は

そもそも立派な家だったんだけど


一階の10畳部分を集会場に使えるよーに

近代的なリビングにリフォームしたよーだ


このたった10畳のスペースの

たった二年間が羅須地人協会の活動場と

なったし


人々のタマシイを磨くための

のスペースとして宝石ブルー


大正15年の花巻の地に

一瞬だけ花開いたのだ🌸




🟦別邸

雨ニモマケズにでてくる

小サナ萱ブキノ小屋

なんかじゃなくて


木造二階建ての立派な建物

一階の8畳の部屋の周りの三方向に

長い板廊下があるのが面白いのだ


配置図とかはコチラからお借りしました👈


炊事場とか水場は別棟になっていて

賢治さんは風呂では水浴していたとゆーから

丈夫なのか、弱いのかよくわからない

ヒトだな♨️


🟦ちなみに別邸は

妹を隔離していたイメージが強かったし

賢治さんも病で早く亡くなってしまったから

負のイメージからなのか


宮沢家では、賢治さんが亡くなったあと

この家を他人に譲ってしまったよーだ


🟦この建物を買い取ったヒトは

結核患者のいた家であったとゆーハナシを

聞いて


中にあった貴重な原稿や書籍を

徹底的に燃やして捨てたらしい


🟦賢治さんの生きた証しが

燃えてしまったワケで🔥

なんとももったいないハナシであるが、


吉本隆明の本の中で


賢治さんが

「自分が死んだら、自分のモノは

全部燃やしてくれ」

と家族に頼んだ


書いてたので、

まあ遺言どおりとなったとゆーコトかな?



🟦別邸は

その後、ほぼ原形のまま、現在の位置に

移転された後に


昭和40年代になって、隣地に花巻農業高校が

移転新築されるコトになって


建物の土地ごと市で購入して

建物は同窓会の手で現状に復元された

とのコトで


まあ不思議なご縁とゆーコトなのかな?



🟦百姓をはじめるどー!


🟦やっぱりセンセーをやめた理由は

何か新しいコトを始めたかったからかな?

とゆー感じがひどくするけど


🟦賢治さんは、ここで

ホントーの百姓になって


一人で自給自足の生活をする気満々で

暮らし始めたんだけど


🟦この別宅から少しはなれた川沿いの

荒れ地を

賢治さんが開墾して「下ノ畑」にして


🟦下の畑では、白菜🥬とうもろこし🌽

トマト🍅セロリ、アスパラガスなどの

野菜を栽培していたみたい



🟦この畑のそばには

北上川が流れていて

目をあげれば早池峰山が望めるとゆー

すばらしいロケーションであったらしい


🟦別邸の周囲も賢治さんが開墾して

花壇を作って

チューリップ🌷やヒヤシンスの花を

栽培していたみたい


🟦入口の黒板

「下ノ 畑ニ 居リマス 

  賢治」

というのがユーメーだな

写真はコチラからお借りしました👈


🟦いまも高校生がチョークで上書きして

くれているみたいだけど


このメモのイミは


「畑に行って家は留守に

しているけど

おやつは中に置いてあるから

勝手に食べていいよ!」

とゆー


子供たちへの賢治さんの菩薩のよーな

やさしい気遣いだったらしい



🟦ヒトが集まる🌀



🟦賢治さんがここに住み始めて

一ヶ月もすると


そーゆーやさしい賢治さんを慕って

近くの農家の青年や

かつての教え子が自然と集まってきた🌀


🟦賢治さんは集まりの中で

レコードの鑑賞会をやってみたり♫

子ども向けの童話の朗読会をやってみた📖


娯楽のとぼしい当時だったろーから

スゲーうけてたんだろーなー♬



🟦6月農民芸術論をプレゼン


🟦月になって

賢治さんは

「農民芸術概論綱要」とゆー

なんとも不思議な芸術論を書いてみた✍️


🟦賢治さんが残した数少ない芸術論

としてユーメーらしいんだけど


🟦テキストの土台となったのは


花巻農学校を退職する間際の三ヶ月間の

農民芸術という科目での講義の内容が

ベースとなったらしい



🟦綱要のなかには、とても良い

フレーズがいっぱいあって♬


🟨世界がぜんたい幸福に

ならないうちは

個人の幸福はあり得ない


とか


🟨新らしい時代は

世界が一の意識になり

生物となる方向にある


とか


🟨正しく強く生きるとは

銀河系を自らの中に意識して

これに応じて行くことである


とか


🟨 まづもろともにかがやく

宇宙の微塵となりて

無方の空にちらばらう


とか

ココロにひびくとても良いコトバが

ならぶんだけど♬♫♫


こーゆー宇宙的なテキスト

作って

これを農民に講義したのがスゴイな!


🟦この文章自体は生前は未発表で

没後の全集に収録されたモノだけど


綱要

「序論」から「結論」まで10章ごとに

10行前後の短い命題で構成されている

んだけど


まてよ?ウィトゲンシュタインさんの

論理哲学論考の作りにも似ているかも?


ウィトゲンシュタインの論理哲学論考はコチラ👈


🟦 綱要の中で

賢治さんが語る珠玉のコトバ宝石ブルー


埋もれさすには惜しすぎる

菩薩行を表すスバラシイものなんだけど


🟦テキトーにワタシの解釈で

次回のブログで書こうかな?


あまりテキトーだと賢治ファンから

苦情がくるべか?



🟦ラスちじん協会をはじめてらす!


🟦そして同年8月に

いよいよ周囲の若い農民とともに

羅須地人協会という


謎のラスのひびきを含んだ私塾を

設立した


このラスにも諸説あっておもしろいので

後でブログにしてみたいんだけど


🟦賢治さんは

昼間は田畑を耕し

夜は協会で講義を開き


集まった農家らにセンセーとして

農業技術や、自然科学や、

芸術を教える

とゆー


賢治さん的にはサイコーに有意義な時間を

過ごすことがほんのちょっとの期間

だったけど実現したのだ!


🟦この私塾の設立の目的

綱要に書かれているよーに


農民たち

農業技術

農業芸術論など

講義するとゆーもので


🟥農業指導では


🟩化学、土壌、肥料、農業指導を行う

ために

農事講演や肥料相談で村々をまわったり

協会の建物で農業の講義もしたよーだ 


🟩肥料設計事務所も開設して

無料で肥料計算の相談に応じていた


🟥科学の講義では


🟥賢治さんが自分で水彩画で描いた

教材絵図で講義を行なったらしく


この自作の教材絵図は

農学校時代にも使用していたらしいけど

写真はコチラからお借りしました👈


科学、土壌、地質、植物、天文、

気象などでは雪の結晶の絵が描かれて

いたりして


農芸化学を中心とした詳細な図で

49点が描かれているらしい


🟥実家が空襲被害を受けて

元版は黒こげに近い状態になったけど


かろうじて焼失を免れて

戦後に表具師によって修復されたものが

現代に残された!


本では

「宮澤賢治 科学の世界-教材絵図研究

(筑摩書房、1984年)がある


この本欲しいーなー!


🟥芸術論では


賢治さんの講義の内容には

様々な芸術に関係するものがあったけど


🟦なんで農民に芸術が必要なのかと

 ゆーと


🟥農民の生活の中に

新しい文化を創造することで


もっと明るく生活をする道を

見付けることができて

その結果正しい労働生産が行われるから


という考えであったらしい


🟥農民芸術とゆーのは


特殊な技術のある芸術家がお金をもらって

なやんで作り出し

これに金持ちがパトロンとなるよーな

お金の絡む芸術ではなく


一般の人々である農民が

楽しく暮らす為に

自然の中での労働や生活の発露

として芸術を実践しようとゆーモノ


であったらしい


🟩このあたり、福岡正信さんも


自然農法で作った田んぼには

蜘蛛が糸を張るんだけど


そのフワフワしたところに朝露が降りて

きて、そこに朝日がきらめく光景は


どんな芸術をも凌牙するよーな

天国の光景であり


生物学と芸術と宗教が織り混ざったよーな

すばらしい自然の風景である


とゆーのにちかいのかな?


🟩芸術の講義のなかでは


🟧レコードコンサート

開いたりして、

ベートーヴェンの交響曲や

バッハのオルガン曲なんかをかけて

楽曲の解説もしていたらしい

 

🟧器楽合奏しよーとしたり

賢治さんも楽団の結成を考えて

自らチェロを、購入して練習に励んだり

してたけど


楽団は練習だけにとどまり

演奏会は開かれなかったよーだし

チェロも上手くいかなかったみたい


🟧演劇を行ったりもしたり


🟧しし踊りのような踊りを踊ったり

🟧童話の読聞かせをしたり


🟧エスペラントの講習をしたり


🟧バザーやレコード交換会行ったり


🟧冬の農閑期には、

農民服、帽子、ルパシカの紐

などの服を製作を企画したり


🟧木工、木琴などの木工品の製作

企画したりして


農閑期の副業を充実させることで

協会員の生活をなんとかしよーと

話あっていたみたい



🟦ねらいはいいけど時代がね


🟦賢治さんは

農民の日常生活の全体を

綱要の世界観でもって

芸術の高みへ上昇させようとして⤴️

様々な文化・芸術活動を行っていた



⤵️けれども

時代は昭和にうつろーとする

重く暗い空気になる時期であったし


⤵️集まってくる若者を除いて

一般の農民の反応は遊び半分でいいな

とゆーよーな、かなり冷やかなもので


年長の保守的な農民の理解は

得られなかったとゆーし


⤵️あふれるアイデアはあったけど

活動資金がそもそも無かった賢治さんは

父親からお金を工面してもらったり


⤵️協会活動のためとゆー名目で

花巻のある商店主から借金を重ねて


一部は賢治の没後にも残って

弟の宮沢清六が返済したとゆーよーな


負のベクトルがまとわりついていた


今の時代でも、どーだろー?

かなりの能力のあるヒトじゃなきゃ

ここまでマルチな活動はできないよなー



とまあ、ラス地人協会の活動は

二年でベクトルが傾きはじめるんだけど


ブログが長くなってしまったので

続きをまた書きますので

よろしければまた読んでみてください🙏


それでは、また!👋