社会的排除と子どもの貧困 ー16.3%の衝撃? | (仮)アホを自覚し努力を続ける!

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社会的排除と子どもの貧困
西澤 晃彦(神戸大学大学院国際文化研究科教授)


16.3%の衝撃?

 基本的な数値を押えておこう。『国民生活基礎調査の概要(平成25年)』(厚生労働省)によれば、日本の子どもの相対的貧困率は、2012年には16.3%に達している(厚生労働省2013)。2010年の数値では、OECD加盟国34か国中10番目であり、OECD平均をやや上回る。日本における顕著な特徴は、ひとり親世帯の貧困率にあり、OECD加盟国中最も高い(内閣府 2014)。ひとり親世帯の中でも、特に母子世帯の貧困は深刻 で、2005年の時点では、たとえ有業者(母子世帯の母親の就業率は85%)であっても収入が少なく(7割が年収200万円未満)、貧困率が高い(内閣府2010)。母親たちが選べる職種として、非正規の臨時・パート職が主なものとなっているためである。「女性が強くなったから離婚率が上がった」といった説明はよく耳にするが、女性の立場が弱いままに離婚率が上昇しているのが現実である。

 就学援助制度は、生活保護世帯および生活保護水準に近いと市区町村が認めた(基準は一様ではない)準要保護世帯に適用される。準要保護世帯の多くは生活保護水準にありながら生活保護を受給していない世帯である。そして、就学援助を受けている世帯のうち、約9割を準要保護世帯が占めている。就学援助を受けている児童生徒数は、2010年には約155万人となっている。2001年には9.7%であった就学援助率も15.3%に増加した。それだけの児童・生徒が、学校教育基本法第19条でいうところの「経済的理由により就学困難」と公認されているのが実情である。

 こうした数値は、「衝撃的」であるだろうか。何かが衝撃となるのは、それを受け止める側にかかっている。私には、この社会がそうした数値に衝撃を受けたようには見えないが、そうであるとするならばそれはなぜだろうか。第一に、貧しい子どもの問題が家族問題に同化されてしまい、子どもを一人の権利ある者としてみなす認識がきわめて弱いことがあげられる。非行はもちろん貧困をめぐっても、「親が悪い」という結論は「お約束」のようだが、そこにおける子どもは親とともに滅びることが宿命であるかのように受け流されてしまいがちである。そこでは、貧困に立ち向かう主体として、運命共同体的な家族が想定されている。このような見方は、家族による生活問題の自家処理を過大に期待して成立した、家族主義的な福祉国家体制と共鳴していると言える。

 第二に、字義どおり「見えない」ことも、子どもの貧困が社会問題化されにくい理由の一つとなっている。自らの貧困を恥とみなす認識は、近代を通して浸透していった。現代では、あまりにも個人化され「自立すること」が至上の価値となってしまっており、貧しい人々の自己認識も自責の感情に強く彩られている。日本の場合、戦後に発達した消費文化は大衆的であり、それゆえ、見た目の上では貧困を隠すことは比較的容易であったと言える。貧しい子どもにとって自らの身なりが「貧乏くさい」ことはたいへんつらいことだが、今日では、「シマムラ」のような安価なファストファッションのショップや百円ショップの化粧品がそうした悩みを軽減することに寄与している。あるいは、制服は、それ自体は高価なものではあるが、ひとたびそれに身を包めば身なりの問題は回避される。ある現象が社会問題として認識される上で、あるかないかではなく、見えるか見えないかが、統計的な数値よりも説得力をもつことがままあるのだ。貧困が隠されているという事態は、貧困の苦しみを減らす一方で、貧困の社会問題化を抑える効果をももってしまっている。

 かくして、16.3%という数値は、衝撃を与えることがないまま、宙をさまよっているのだ。