(仮)アホを自覚し努力を続ける!

(仮)アホを自覚し努力を続ける!

アウグスティヌスの格言「己の実力が不充分であることを知る事が己の実力を充実させる」


Amebaでブログを始めよう!

「多様な働き方」における 生活賃金の課題
藤原 千沙(法政大学大原社会問題研究所准教授)


4.生活できる賃金とは何か

 

 では、生活できる賃金をどのように考えていけばいいだろうか。

 

 第一に、世帯モデルとしては、親1人子1人モデルを提唱したい。現状でも最低賃金でフルタイム働けば自分一人の生計費は確保できるかもしれない。だが労働者一人の生活をかろうじて満たすだけの賃金水準では、子どもを産み育てることはできず、労働力の世代的再生産は不可能となる。

 

 他方、親2人子2人といった共稼ぎモデルでは、その賃金水準の半分で親1人子1人の世帯が暮らせるわけではない。規模の経済が働かないからである。むしろ、親1人子1人が生活していくことができる生計費を「生活できる賃 金」水準として設定すれば、親が2人いれば子どもは2人以上養育することが可能となるのであり、母子世帯や父子世帯であっても少なくとも子ども1人であれば貧困に陥らずに生活していくことができる。

 

 第二に、その賃金水準を得るために必要な労働時間は、日々の労働力再生産のために、また世代的な労働力再生産のために、必要な生活時間が加味されていなければならない。これについては、連合が掲げる「年間総労働時間1800時間」モデルは、労働時間1日7.5時間、年間労働日240日(週休2日)をベースとしたものであり、妥当であろう。

 

 生活できる賃金を考えるうえで労働時間の視点は重要である。時給1000円で年間3000時間働けば年収300万円を得ることはできる。だが年間240労働日で年間3000時間とは1日12.5時間労働である。1日24時間の半分が有償労働に費やされ、それ以外は生物体としての生理的時間だけで毎日が終わる暮らしは、生活しているとはいえない。ただお金があれば子どもが育つわけではなく、子どもと向き合いともにすごす時間が必要である。労働力の再生産にとって必要なのはお金だけではなく、時間の保障が不可欠である。

 

 第三に、このように設定された生活できる賃金を、誰がどのように保障するかである。直接賃金として個別企業に求めるのか、あるいは間接賃金として税や社会保障のルートで求めるのか、いずれの方法もありうる。

 

 たとえば、労働者が最低限の生活を営むのに必要な賃金水準として連合が試算している連合リビングウェイジ(2013年)では、さいたま市、自動車なし、親1人子1人(小学生)世帯で、月あたり必要生計費は171,326円とされている。税・社会保険料込で年収換算すると2,508,012円であり、それを年間1800時間の労働時間で得るには時給1394円以上が必要となる。

 

 このような試算は、個別企業が支払う直接賃金ですべての必要生計費を賄うことを前提としている。だが公営住宅、家賃補助、教育費の無償化、医療費の免除など、税や社会保障を通した所得再分配で賄われる範囲が広が れば、必要生計費は下げることが可能である。

 

 もっとも、税・社会保険料といった非消費支出は増えるため、必要生計費の低下相当分がそのまま賃金の低下につながるわけではなく、企業コストとしては変わらないかもしれない。だが生活できる賃金の一部が個別企業からではなく政府を通した所得再分配のルートで保障されるようになれば、たとえ失業しても、無業者でも、自営業や請負労働者でも享受できるようになり、社会連帯は広がるだろう。

「多様な働き方」における 生活賃金の課題
藤原 千沙(法政大学大原社会問題研究所准教授)


3.「多様な働き方」で生活できるか

 

 では、このような事例は、自営業にくくられる請負型のテレワークだったからこそ生じた問題であり、雇用労働であれば生じないのだろうか。つまり、労働基準法や最低賃金法など雇用労働者としての基本的権利が守られる仕事であれば、その仕事で食べていくこと、生活していくことはできるだろうか。

 

 残念ながら、必ずしもそうではない。パート、アルバイト、臨時、非常勤、嘱託、契約、派遣といった非正規雇用では、たとえフルタイム働いても生活できる賃金が得られるとは限らず、非正規雇用の増加は日本社会における貧困の拡大につながった。

 

 厚生労働省「国民生活基礎調査」によると、2012年の相対的貧困率は16.1%であり、比較可能な1985年以来、最悪の高さである。国際的にみても日本の貧困率は高く、18歳~65歳の稼働年齢層の貧困率14%はOECD平均10%を上回り、稼働年齢層の貧困率において日本はOECD先進34か国のうち7番目に高い国となっている。

 

 しかも日本の貧困の特徴は「仕事がないから」「失業しているから」貧困なのではない、という点にある。世帯主が稼働年齢にある貧困者の世帯状況をみると、世帯内に就業者のいる割合は、イギリス33.0%、ドイツ33.6%、フランス62.5%、アメリカ71.9%などに対して、日本は82.7%ときわめて高い。

 

 就業者がいるにもかかわらず貧困であるということは、その労働報酬が生活できる水準を満たしていないことを意味する。働いても貧困から抜け出せず、働くことが報われない社会構造は、資本制経済社会の根幹を揺るがす事態である。労働組合や労働運動にとっても労働の価値の凋落は見過ごすことのできない抵抗すべき課題ではないだろうか。

 

 これまで日本の労働組合は、いわゆる電産型賃金で知られるように、「食える賃金」「生活できる賃金」を求めて、生計費を考慮した賃金要求を行ってきた。純粋な生活給としてだけでなく、職務給、職能給、成果主義賃金など賃金をめぐってさまざまな議論が行われるなかでも、雇用労働者である以上、賃金で生活することは大前提であり、たとえ仕事や成果に応じた賃金であろうと生活できる賃金水準を下回ることは想定されていなかった。賃金が生活できる水準であることは当然であり、賃金をめぐる労使の議論はその水準を超えて、どのような賃金決定が公平・公正であるかが焦点とされてきたのである。

 

 労働組合は、少なくとも正社員の賃金については、その賃金制度がどうであれ、生活できる賃金水準を曲がりなりにも獲得してきたとして、では「多様な働き方」ではどうなのか。「多様な働き方」とは従来のような正社員ではない働き方を意味するものだとすると、そういった働き方を選択しても生活できる賃金は保障されるのか。

 

 「多様な働き方」の議論で決定的に欠けているのは、果たしてそれで食べていけるのかという、賃金の視点である。

 

 不思議なことに、「多様な働き方」の議論においては、その仕事の賃金だけで生活することは想定されておらず、他に生計維持手段があることが前提されているかのようである。パートの女性は夫がいるので、生活できる賃金水準でなくても困らないという前提で、正社員の賃金とはかかわりなく、最低賃金制度や労働市場の需給関係で賃金が決められてきた。

 

 このように、正規と非正規とでは賃金の考え方や決め方がまったく異なり、均等処遇が行われていない日本の現状において、「多様な働き方」=「従来の正社員ではない働き方」が広がれば、生活できる賃金を得ることのできない労働者が増加するのは必然である。稼働年齢層の貧困率が他の先進諸国と比べても高い日本の現状は、非正規雇用の賃金では必ずしも生活できないことを知っていながら対処してこなかった労使の双方と、賃金の不十分性を税や社会保障といった所得再分配でも対処してこなかった政府、政労使すべての責任である。

 

 稼働年齢層の世帯には18歳未満の子どもが育てられていることが多いため、稼働年齢層の貧困は「子どもの貧困」と密接に関連する。2010年前後で、子どものいる稼働年齢世帯の貧困率14.6%はOECD平均11.6%より高く、なかでも、ひとり親世帯の貧困率50.8%はOECD平均31.0%をはるかに超え、日本は他のどの国よりも高い。稼働年齢層の貧困は、子どもの貧困につながり、子どもの貧困は、社会の未来につながる。「多様な働き方」を推進していくのであれば、生活できる賃金をすべての労働者に保障することが、社会の存続にとって不可欠である。

「多様な働き方」における 生活賃金の課題
藤原 千沙(法政大学大原社会問題研究所准教授)

 

2.雇用か請負か、生計維持か社会参加か

 

 国土交通省の説明によれば、「ICT(情報通信技術)を活用した場所にとらわれない柔軟な働き方であるテレワークは、家庭生活との両立による就労確保、高齢者・障害者・育児や介護を担う者の就業促進、地域における就業機会の増加等による地域活性化、余暇の増大による個人生活の充実、通勤混雑の緩和等、様々な効果が期待されている」とある。総務省、厚生労働省、経済産業省、国土交通省など関係省庁が連携して普及促進を図っており、第3次男女共同参画基本計画においても、テレワークは「仕事と生活の調和を可能にする多様な働き方」「ライフスタイルに応じた多様な働き方」として、短時間正社員制度等と並んで推奨されている。

 

 たしかに、会社に雇用されて働く労働者がオフィス勤務だけでなく在宅勤務ができる日も選択できるようになれば、労災認定の困難など懸念もあるとはいえ一定の利点はあるだろう。月給や労働時間は変わらず、通勤時間だけを節約できれば、その時間を生活時間に充てることで「仕事と生活の調和を可能にする働き方」といえなくもない。

 

 だがテレワークにはこのような在宅勤務としての雇用型だけでなく、自営業の個人事業主として扱われる請負型が存在する。請負型のテレワークは業務を安定的に受注できる見込みもなければ、労働時間に見合った報酬が得られる保証もない。しかも冒頭の仕事説明会で紹介された仕事のように、最低賃金すら保障されないばかりか現金でもない「報酬」。自分が労働力を提供した行為の意味も知らされず、それを通して自身が学び成長することもない「仕事」。このような請負型のテレワークも「多様な働き方」として推奨されるのだろうか。このような仕事でどうやって生活できるのか。

 

 生計維持手段がほかにあるならば、安定的でない仕事量も労働時間に見合わない報酬も、とくに支障はないという人はいるのかもしれない。社会とつながるために仕事をしたい人にとっては、働きたいときに好きな場所で自由に仕事を選べる請負型のテレワークも選択肢のひとつになるのだろう。だがそれは年金や個人資産といった、働いて得る「賃金」がなくても生活できる人に限られている。仕事量も報酬も不安定な請負型のテレワークは、生きがいを求めて働く人の社会参加の手段とはなっても、それで食べていく生計維持の手段とすることは困難である。

 

 このような雇用型と請負型、生計維持と社会参加という、二つの異なる特質が区別されずに一括して「多様な働き方」と総称され、さもこれからのICT社会や男女共同参画社会にとって望ましい働き方のように喧伝されることは問題である。被災地の仕事説明会に参加した求職者は、「生きていくために働く」「食べていくために働く」「生活できる仕事」を求めて、参加したはずである。にもかかわらず、そこで紹介された仕事は、その仕事で生活できるものではまったくなかった。