表層より真理へ 正義って | (仮)飯田橋日記

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学部生時代に比較的興味を持った科目に「法哲学」があります。
もっとも実際の講義は1年間約15回「いかに天皇制は不必要か」という内容だったので、まあその是非はともかく、もう少し色々な内容で授業をしてほしかったです。

結局、独学で法哲学の本などを読み、なかか面白かった印象が残っています。
法哲学は、その担当者により内容が千差万別だそうです。

民法や刑法など、いわゆる実定法の講義ならば、条文解釈が中心ですからパターンが一定です。しかし法哲学、それ以外にも法社会学などいわゆる基礎法学と呼ばれる領域の講義は、様々な内容になるようです。

それでも、法哲学の問いは

「法とは如何なるものであるべきか」(法価値論)
「法とは如何なるものであるか」(法概念論)


が中心になります。
いわゆる「正義論」を中心に発展してきた感があります。

一般的な正義論では

1.どのような行為が既存のルールに照らして「正しい」のか。
2.どのようなルールが「(ありうべき)正しさの規準」に照らして「正しい」のか。
3.そもそも 「正しさの規準」 というものは存在するのかどうか、もし存在するのであれば一体どのようなものなのかという規準。

を問題にしますが、法哲学でも同様です。

最近はTV等でおなじみのマイケル・サンデル先生が公共哲学の視点から色々分析、論議をしているのが、この正義論の一つです。


自然科学の分野では「真理」の探究が、その行動規範になるのだと思います。今は曖昧でも最終的には事実として証明されるものの探究、つまり、絶対的な答えへの旅です。


これに比して、法律学や政治学などの社会科学の分野ではどうなのか? 学部1年次の時に神田の古本屋街を歩いていて見つけた古書に「表層より真理へ」と書かれていました。その時は良く意味がわからなかったのですが、その後おぼろげながら意味が理解できるようになりました。しかしそこで新たな疑問が。果たして「社会科学に真理が存在するのか」という根源的な問いです。
この答えはとりあえず留保するとして、法哲学の話に戻ります。

「正義」とは何か?
「正しさ」とは何か?

まず、実定法の世界では、ソクラテスが死刑に際して言ったという「悪法もまた法なり」という諺が端的にその本質を示しています。(厳密にはこの解釈にも、その拠る立場で違いますが)
一般論で言えば「たとえ悪い法律であっても、法は法であるから、廃止されない限りは、守らなければならない」と言うことです。

もちろん現代国家では、前提として、適正手続きを経て制定された法、ということになるでしょうが。

つまり、実定法の世界から判断すれば、遵法が正義、違法が不正義ということになります。


ところが法哲学の世界ではこれに異議を唱えます。
そもそもその法は「正しい基準」を示しているのか? いやそもそも「正しい基準とは何ぞや」と言う話になります(;^_^A

どのような立場にせよ、法に携わる者は、多かれ少なかれこの「根源的な問い」を常に考えているわけです。

判断をするのは法だが、それ自体に対して「問を持つ」という、二律背反的な苦悩、これこそが正義が抱える本質的なテーマだと私は考えています。
換言すれば、与えられたモノをそのまま受け取る事の恐さを常に考えるということでもあります。

社会科学である以上、その疑問を無くすことなく、表層から真理へ向かい追求し続けることにその価値があるのではないでしょうか。


正義の相対性は言うまでもなく、ある時期や地域で正義とされた事が、別の時期や別の地域では不正義になることは少なくありません。


ではある頭のいい、あるいは有名な人が言ったこと、命令した内容が正義となりうるか? もちろん否です。
法律学的な視点からいうと、社会、国家を構成する人々によりオーソライズ(authorize)された人々がしかるべき機関で制定した場合、それは限りなく正義に近いものとして処理される力を持つと考えています。(一応近代国家では立法府がそれにあたる)
つまりこの「権威」こそが非常に重要な意味を持つのです。先の「頭の良い有名な人」と言うのは、一見「権威」のように感じますが、もちろんそれは偽の権威です。
権威とは、その社会の構成員の大多数により承認されることで、本当の権威になります。
もちろん、それとて、批判的な視点を忘れてはならないと思います。

法的思考、リーガルマインド的な「正義」とはこのようなものだと私は考えています。

機会を改め、政治学的な正義について考えてみたいと思います。