(仮)飯田橋日記

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おじさん最後の力をふり絞る。。。
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公共政策(防衛政策・危機管理)を勉強しています。
更新頻度は、、、<(_ _)>

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夏以降、日足のわらじプラス私ごとも加わり、あまりの忙しさに、時間がまるで作れず、更新がおろそかになっていました(^_^;)

今日は夕方まで少し時間がきましたので、久しぶりの読書とblogの更新をしようと思い立ちました。

視力が悪くなってきたので以前のようなペースでの読書が厳しいのですが、ペルー人は今でもスペイン人に、潜在的な敵愾心を持っていると聞き、確か本棚にあった小菅信子先生の「戦後和解」(中公新書2005)を引っ張り出して、再度、読み始めています。

いわゆる戦後(等)和解の問題は、個人間であれ国家間、地域間であれ、一度敵対し、今とは違う昔の価値観に基づく対立や程度の差こそあれ非人道的な行為が行われた場合、その後、各々がもつ、その歴史的認識、あるいはつくられた物語を引きずりながらも和解は可能なのか、大変興味深い内容です。
日米は、あれだけ対立していたにも関わらず、現在では一定の信頼関係の構築に成功しています。
小菅先生は本書で太平洋戦争における日英間の問題を中心にそれ以外の問題にも言及されています。
楽しみです。



戦後和解 - 日本は〈過去〉から解き放たれるのか (中公新書 (1804)) 小菅 信子 http://www.amazon.co.jp/dp/4121018044/ref=cm_sw_r_tw_dp_gRDLqb0YJ9THC
「正しい戦争ってあるんだろうか。戦争をなくすなんて、無理なことだろうか。今の世界で戦争とか平和の意味を考える」
「なぜこのような混乱が起こるのだろうか。それは平和を作る手段が戦争を作る手段とほとんど同じであり、平和を保つものも軍隊なら戦争を作るのも軍隊だ、という、国際政治の最も基本的な逆説から生まれている。」

藤原帰一「『正しい戦争』は本当にあるのか」(ロッキングオン2003)



今日は戦争という国家の行為で、亡くなられた方々のご冥福を祈ると同時に67年間おおむね平和であった事に感謝をします。

相変わらず、報道機関は「公人か私人か」などと意味のない質問を繰り返し、右翼は拡声器で騒ぎ、左翼はのぼりを立てて騒ぐ。
靖国をめぐる喧騒が一日も早く収まるといいのですが。





疲れた者に力を与え、
精力のない者には活気を与える、
主を待ち望む者は、
新しく力を得、
鷲のように翼を駆って上がることができる。
走ってもたゆまず、
歩いても疲れない


神の為に走ったエリック・リデル Eric Henry Liddell
差別と闘うために走ったハロルド・エーブラムス Harold Maurice Abrahams

史実をもとにしている映画だけに、その世界に惹きこまれ、何度も映画館へ見に行ったのを覚えています。

いよいよロンドンオリンピック開幕!
『JAPAN IN A DAY』予告編
http://special.movies.yahoo.co.jp/detail/20120720093882/



映画『JAPAN IN A DAY [ジャパン イン ア デイ]』(2012年11月公開予定)


【解説】2011年3月11日の東日本大震災からちょうど1年後のその日、世界中の人々がどのように過ごしていたかを投稿された映像によってつなぐドキュメンタリー。『グラディエーター』のリドリー・スコットと『アンストッパブル』のトニー・スコットがエグゼクティブプロデューサーとして名を連ね、動画サイト「YouTube」に寄せられた約8,000件、およそ300時間の動画を基に1本の映画として作り上げた。1年前のあの日に思いをはせる人やプロポーズをする人など、日本を中心とした12か国の人々のその日の様子から、過去から現在、そして未来へと、時間の連続や人間のつながりが浮かび上がる。


【あらすじ】2012年3月11日。2011年のその日に起きた東日本大震災から1年後、人々はどのような24時間を送り、どのようにそのときを迎えたのか。1年前の出来事に思いをはせる瞬間、いつもの日常を過ごす瞬間、そしてプロポーズをする瞬間。人々が迎えたいくつもの瞬間がつながり、あれから1年後の1日の物語が出来上がる。


公式HP http://www.fujitv.co.jp/japaninaday/

JAPAN IN A DAY http://www.youtube.com/japaninaday
(仮)飯田橋日記


今日は勝鬨、晴海に用事があったので、その後、門仲に寄りました。
いつものようにお不動さんへ顔を出してから、東西線の駅のすぐそばの、あげまん屋さん宮月堂さんで「あげまん」を買ってきました。

先代のおかみさんが母親の幼馴染ということで、昔から良く行っていたのですが、このところご無沙汰していました。

オーブントースターなどであぶると少し時間がたってもおいしくいただけます(^u^)


宮月堂 みやげつどう - 門前仲町/和菓子 [食べログ]
http://tabelog.com/tokyo/A1313/A131303/13020016/

<民主>鳩山氏も「離党カード」、政権ゆさぶる(毎日新聞 7月18日(水)22時55分配信)
「消費増税を柱とする税と社会保障の一体改革関連法案は18日、参院の特別委員会で実質審議がスタートしたが、民主党は離党ドミノが止まらず揺れている。鳩山由紀夫元首相は同日、消費増税のほか原発再稼働や米軍垂直離着陸輸送機オスプレイの配備問題でも野田政権を批判し、9月の党代表選で野田佳彦首相の対立候補擁立を検討することや、代表選後の離党の可能性に言及し、政権をゆさぶった。」



島田裕巳(‏@hiromishimada)先生のツイッター
民主党って言うのは、単なる寄せ集めで、政治結社ですらないのかもしれない。党を出て行く人も、失望したと言いながら、なかで批判し、ぶつかりあったりもしない。それだけ、党というものに希望も期待もないということか。すでに政党政治ではなくなっている。



2009年の自民党も同じように泥船から逃げ出す議員がいました。しかし、現状の民主党よりは遥かに抑制されていたし、ここまであからさまな政権政策批判が繰り広げられるとは、なんとも恥ずかしい状況です。

民主党は元々党綱領も制定できず、政権交代、打倒自公政権のみで集まった集団です。それを政党と呼べるかどうか、検証が必要だと思いますが、おそらく初めから、彼らには、覚悟も責任感もなく、ただただ政権交代実現という高揚感、そんな幼稚なワクワク感に引きずられたのだろうと思います。もちろんマスコミも国民も含め。

社会の変革(必ずしも今がダメだという出発点ではなく、よりよい社会を目指すと言う意味)は何やら超人的なものを求めてもだめで、結局、地道で地味な作業の積み重ねによってのみ達成されるのです。

短期的な政治的課題をクリアーしつつ、ある理念に向け長期的な政治活動をするもので、高度に複雑化した現代社会においての“革命幻想”は、大多数の市井の国民にとって、迷惑以外の何物でもない事に、政治家やメディアはそろそろ気がついて欲しいものです。

今日、仕事で御徒町駅を利用しました。比較的良く行く所なのですが、早朝や夜が多く、昼間にはあまり行きません。
今日行って改めて驚いたのですが、とにかく宝石店が多いのです。業者さんへの卸ばかりでなく小売店も多いので、ここは女性を連れてこれない街だなぁ~と思ってしまいました ガーン

戦前は上野への接続地域ということで、見世物小屋などが多く、歓楽街だったそうです。
戦後、時計を販売する業者が沢山現れ、その副業でジュエリーを扱うようになったそうです。
そして1955年(昭和30年)11月21日に時計関係の問屋有志12社で「仲御徒町問屋連盟」を設立し本格的に宝石の街になっていったそうです。

(参考 JTO ジュエリータウンおかちまちHP

上野と秋葉原に挟まれ、控えめな御徒町ですが、宝石店だけでなく、食べ物屋さん等も沢山あり、なかなか面白い街です。
学部生になった時、学部生全体への訓辞で、相続法の第一人者である当時の法学部長が「この4年間でリーガルマインドを身につけるよう頑張りなさい」と仰いました。
突然リーガルマインドと言われても、何のことか分からずボーと聞いていたのを覚えています。

「リーガルマインド」すなわち「法的思考」とは如何なるものか、恐らくはっきりした定義は無いのではないかと思います。


何らかの事象を法的に判断するには、法律、成文法のみならず条文、学説、判例などを駆使し解き明かすことが前提です。
その根底にあるのが法的思考ではないかと思います。冷静な判断のもと、客観性、公平性等を保ちつつ、当事者にとって、あるいは社会にとって、最も合意できる結論を導き出す態度、その思考方法をリーガルマインドであると私は考えています。


裁判官等も、その客観性が疑われる場合、職務執行から排除する制度が規定されています。
例えば、刑事訴訟法第21条第1項 裁判官が職務の執行から除斥されるべきとき、又は不公平な裁判をする虞があるときは、検察官又は被告人は、これを忌避することができると規定されています。(他にも民訴24-1、26)


誰かの人生を左右する判断をする立場の者が、客観性や公平性等を損なう状態でその職務を遂行できないのは言うまでもありません。
しかし同時に、人間である以上、正常な状態であっても、何にも左右されない判断力、心、というのを保つことは、ほぼ無理であるはずです。
そこで、裁判の手続きは、それを前提に、検察と弁護の攻撃防禦、判断をする裁判官を合議体とする等の予防策を講じているのです。さらに三審制はその事をもっともよく表す制度の一つです。

それでも、人間の自分自身の思考などというものは危うい不確かなものだとの自覚が必要ですし、その思いこそが、裁判等を公平に進める一つの担保であると思います。


科学の世界では“体験こそ疑え”という言葉があるそうです。
リーガルマインドにプラスしてクリティカルシンキング(批判的思考)をも併せて持つ必要があります。

(続)

学部生時代に比較的興味を持った科目に「法哲学」があります。
もっとも実際の講義は1年間約15回「いかに天皇制は不必要か」という内容だったので、まあその是非はともかく、もう少し色々な内容で授業をしてほしかったです。

結局、独学で法哲学の本などを読み、なかか面白かった印象が残っています。
法哲学は、その担当者により内容が千差万別だそうです。

民法や刑法など、いわゆる実定法の講義ならば、条文解釈が中心ですからパターンが一定です。しかし法哲学、それ以外にも法社会学などいわゆる基礎法学と呼ばれる領域の講義は、様々な内容になるようです。

それでも、法哲学の問いは

「法とは如何なるものであるべきか」(法価値論)
「法とは如何なるものであるか」(法概念論)


が中心になります。
いわゆる「正義論」を中心に発展してきた感があります。

一般的な正義論では

1.どのような行為が既存のルールに照らして「正しい」のか。
2.どのようなルールが「(ありうべき)正しさの規準」に照らして「正しい」のか。
3.そもそも 「正しさの規準」 というものは存在するのかどうか、もし存在するのであれば一体どのようなものなのかという規準。

を問題にしますが、法哲学でも同様です。

最近はTV等でおなじみのマイケル・サンデル先生が公共哲学の視点から色々分析、論議をしているのが、この正義論の一つです。


自然科学の分野では「真理」の探究が、その行動規範になるのだと思います。今は曖昧でも最終的には事実として証明されるものの探究、つまり、絶対的な答えへの旅です。


これに比して、法律学や政治学などの社会科学の分野ではどうなのか? 学部1年次の時に神田の古本屋街を歩いていて見つけた古書に「表層より真理へ」と書かれていました。その時は良く意味がわからなかったのですが、その後おぼろげながら意味が理解できるようになりました。しかしそこで新たな疑問が。果たして「社会科学に真理が存在するのか」という根源的な問いです。
この答えはとりあえず留保するとして、法哲学の話に戻ります。

「正義」とは何か?
「正しさ」とは何か?

まず、実定法の世界では、ソクラテスが死刑に際して言ったという「悪法もまた法なり」という諺が端的にその本質を示しています。(厳密にはこの解釈にも、その拠る立場で違いますが)
一般論で言えば「たとえ悪い法律であっても、法は法であるから、廃止されない限りは、守らなければならない」と言うことです。

もちろん現代国家では、前提として、適正手続きを経て制定された法、ということになるでしょうが。

つまり、実定法の世界から判断すれば、遵法が正義、違法が不正義ということになります。


ところが法哲学の世界ではこれに異議を唱えます。
そもそもその法は「正しい基準」を示しているのか? いやそもそも「正しい基準とは何ぞや」と言う話になります(;^_^A

どのような立場にせよ、法に携わる者は、多かれ少なかれこの「根源的な問い」を常に考えているわけです。

判断をするのは法だが、それ自体に対して「問を持つ」という、二律背反的な苦悩、これこそが正義が抱える本質的なテーマだと私は考えています。
換言すれば、与えられたモノをそのまま受け取る事の恐さを常に考えるということでもあります。

社会科学である以上、その疑問を無くすことなく、表層から真理へ向かい追求し続けることにその価値があるのではないでしょうか。


正義の相対性は言うまでもなく、ある時期や地域で正義とされた事が、別の時期や別の地域では不正義になることは少なくありません。


ではある頭のいい、あるいは有名な人が言ったこと、命令した内容が正義となりうるか? もちろん否です。
法律学的な視点からいうと、社会、国家を構成する人々によりオーソライズ(authorize)された人々がしかるべき機関で制定した場合、それは限りなく正義に近いものとして処理される力を持つと考えています。(一応近代国家では立法府がそれにあたる)
つまりこの「権威」こそが非常に重要な意味を持つのです。先の「頭の良い有名な人」と言うのは、一見「権威」のように感じますが、もちろんそれは偽の権威です。
権威とは、その社会の構成員の大多数により承認されることで、本当の権威になります。
もちろん、それとて、批判的な視点を忘れてはならないと思います。

法的思考、リーガルマインド的な「正義」とはこのようなものだと私は考えています。

機会を改め、政治学的な正義について考えてみたいと思います。