小学校4年生の5月まで、東京都小平市の官舎に住んでいた。
その官舎に一度だけ、父の実家の呉から、父の母(呉のおばあちゃん)が訪ねて来たことがあった。
昭和42年前後のことだったのではないかと思う。
おばあちゃんは1泊か2泊して呉に帰ることとなり、夜行列車で帰るおばあちゃんを東京駅まで見送りに行った。
おばあちゃんが乗ったのは夜行の寝台急行列車で、呉線経由の広島行き「急行・音戸号」であった。
東京駅の発車時刻は、夜の7時か9時のどちらかであったと思う。
東京駅での別れの際、父が泣いているのが分かった。
父が泣いているのを見たのは後にも先にもこの1回だけである。
この数年後、呉のおばあちゃんは肝臓疾患で亡くなった。
学生時代、就職試験の試験監督をするというアルバイトをしたことがあった。
私が大学生の頃までは、東北方面に向かう夜行の非寝台急行列車が走っており、青森や札幌に試験監督のために赴く際には、その「上野発の夜行列車」を利用した。
私が利用したのは、急行十和田か急行八甲田であったと思う。
この急行はディーゼル機関車が牽引する普通客車16両くらいの列車で、夜11時ころに上野駅を発車する。
客席は4人掛けの固いボックスシートしかなく、乗客は2人分のイス席を確保して、エビのように体を折り曲げて座席に寝転がっていた。
列車は発車するとき、先頭のディーゼル車の牽引に合わせて客車が順番に引っ張られていく。
あの夜行列車特有の「ピー」という警笛と、客車が動き出す際に先頭車両の連結器から始まって後ろの車両に順次伝わっていく「ガタガタガタガタ…」という音は、あの当時の夜行列車ならではのものであった。
試験が札幌の会場で行われるときは、青森で下車して青函連絡船に乗り、函館から札幌までまた列車を利用した。
天候が悪くて連絡船が上下左右に激しく揺れたこともあった。
乗客たちは雑魚寝の床で炒め物のウインナーのようにゴロゴロ転がされ、皆さん悲鳴を上げ続けていた。
私も「洞爺丸事件」を思い出して生きた心地がしなかった。
今のJRにもまだ少し急行列車が残っているようだが、新幹線網が普及する中、風前の灯となっている。
旧国鉄にそのような夜行寝台急行や夜行急行が存在していたこともいつの間にか遠い昔のこととなってしまった。
それだけ自分が歳を取ったということなのであろう。
アラ還オヤジ
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