重松清「はるか、ブレーメン」。

走馬灯をテーマにした小説である。

 

 

走馬灯とは、中心部から発せられた光によって内側の影絵が回転しながら外に映るように細工された灯籠のことである。

 

これに似ていることから、人が死ぬ間際に人生の様々な情景や記憶を思い浮かべる現象を「走馬灯現象」と呼び、科学的な研究もなされている。

 

 

 

私の父は、東日本大震災の数年前のある初夏の明け方、この世を去った。

 

私自身は父について悔やんでも悔やみきれない様々な思いを残しているが、では父自身は亡くなる間際どのような光景を見ていたのだろう。

 

小説「はるか、ブレーメン」には人が死ぬ間際に見る走馬灯を事前に見て操作する能力を持つ人が出て来るが、その人は小説の中で「後悔のない人生などない。後悔もまた走馬灯の絵である。」旨述べていた。

 

恐らく父も、自分の力ではどうすることもできない運命を恨んだり、いくつもの後悔を抱いたりしながら人生を終えていたはずだ。

 

 

 

父は貧しい家の9人兄弟の長男で、夜間中学を卒業するとすぐに呉海軍工廠水雷部見習科という部署に採用されて海軍生活をスタートし、呉海軍工廠東京監督官事務所というところで終戦を迎えた。

 

戦後、父は改めて上京して早稲田大学政治経済学部の夜間部に進学し、昼間は赤羽の鉄工所で働きながら実家に仕送りをして家計を助けていた。

 

在学中父は栄養失調がひどく、学校の階段で眩暈を起こしてしゃがみこむことが何度もあったという(昔、母が言っていた)。

 

そんな父には人並に恋愛をする暇など無かったことだろう。

 

でもそんな父にも、政治家や新聞記者になりたいという夢はあったようだ。

 

だが結局、父はある官庁に技官として就職した。

 

 

 

官庁就職後、父には、呉にある小学校の校長先生の娘(学校の先生)との縁談があったという(父自身から聞いた)。

 

しかし父は、出自の違いや貧しい育ちなどを負い目に感じ、校長先生の娘との縁談はお断りしたと言っていた。

 

その後、母と結婚し、結果として私も生まれることになる。

 

 

 

もう当時を知っている人はほとんど生きていないと思うので記録しておくが、仕事ができた父は当該官庁で相応に出世し、ノンキャリアながら異例中の異例で本省の課長に昇進することとなった。

 

ところが父は、この話を断ったのである。

 

当時私たち家族は官舎に住んでいたが、ちょうどマスクの小父さん(私の兄)が学校に行かず引き籠って大声を出して暴れるなど色々な問題を起こしており、そのことは官舎の住人達も薄々気付いていた。

 

他方、本省の課長ともなると、国会答弁などの重責も担うことになる一方で、マスコミが官庁幹部の家庭内の粗探しなどに走り、家庭の問題が原因で仕事に支障が出る恐れもない訳ではなかった。

 

父自身はずっと「まだまだ金がかかるのに、課長になると一斉に退職せにゃいかんからのう。」と言っていたが、大きな理由が別にあったことは私にも判った。

 

父が課長昇格を断った話は当時かなりの噂になり、「なんでそんな勿体ないことをしたのだろう。」と随分勘繰られたという。

 

 

たぶん、不本意な部分も少なくなかったであろう父の人生。

 

父はどんな思いで最後の走馬灯を眺めていたのであろうか。

 

父はどんな思いでその人生を締め括ったのだろう。

 

父ともっと話をしておくべきであった。

 

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