重松清の「めだか、太平洋を往け」を読み始めた。
主人公は教員をリタイアしたばかりの60代半ばの女性である。
女性の息子は小学生の男の子を育てるシングルマザーと結婚したが、息子夫婦はその男の子だけを残して交通事故で亡くなってしまう。
男の子と血が繋がっている親族たちは誰も男の子を引き取ろうとしないため、主人公の女性が血の繋がらない孫である男の子を引き取って育てることになる。
もう遠い昔のことになってしまったが、2人の思春期の子どもを育てていた年上の女性と10年あまり一緒に暮らし、子どもたちを経済的に支えて大学まで出してあげたということがあった。
一緒に暮らし始めた頃、子どもたちは私のことを呼ぶとき、「すいません。」とか「あのー、ちょっと。」などと言って、まさしく他人行儀に声を掛けていた。
みんなで繁華街に出掛けたときなど、私ひとりだけ関係ない方向に行ってしまったりすると、「あのー、すいませーん!」と大声を出すわけにもいかず(歩いている人みんなが振り向いてしまう恐れがある)、わざわざ走って来て肩を叩いて気付かせたりした。
私が彼らを呼ぶときは名前を呼び捨てにすれば済んだが、彼らには実の父親も生きていて交流もしていたから、私のことをどう呼べばいいのか、彼らなりに苦しんでいたことだろう。
彼らが当時の私のことを「おとうさん。」と呼ぶようになったのは、あれはいつの頃からであったか。
年上女性が「食事だから『おとうさーん』って言って呼んできて。」などとわざと言って、間接的に「おとうさん。」と呼ぶことに慣れるよう配慮していた可能性は十分にある。
年上女性はそういう気配り(計算?)ができる人ではあった。
「めだか、太平洋を往け」では、小学生の男の子は、血の繋がらない主人公の女性のことを、最初から自然に「おばあちゃん。」と呼んでいた。
「おばあちゃん」という言葉は、「祖母」を指す場合もあるが、単に「年老いた女性」を指したりもするので、男の子が主人公のことを最初から「おばあちゃん。」と呼んでも、別に不自然ではなかった。
しかし、「おとうさん」という語はそのような柔軟性に乏しい。
他人のことを「おとうさん。」と呼びにくいのはよく分る。
ただ、スーパーのレジ待ちの列に爺さんが割り込んできた場合などには、「おとうさーん、悪いけどここ並んでるんすよ。」みたいな形で使うことはできる。
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