嫌なことがあった。

とっても嫌な事……。

こんな理不尽な事って本当にあるんだなって、なんだか辛くなった。

何よりも「彼女がそんなことするはずないだろう!」って言ってくれる人が誰もいなかったことが悲しかった。

皆、わかっているはずなのに……結局、自分が一番かわいいんだろうな。

お母さん……お母さんでも、同じようにした?

お母さんなら、私みたいに理不尽に怒鳴られている後輩がいたら助けた?

お母さん……どうしていないの?

 

 

ぼーっとしながら帰っていた私は、いつの間にか家に着いていた。

鞄を玄関に投げて、スーツのままベッドにダイブ……。

もう何も考えたくなかった。このまま眠りにつきたい。

どうせなら永遠に眠っていたいし、明日なんて来なくていいし、会社にも二度と行きたくない。

頭の中は今日あったことでいっぱいだった。

こんなとき、以前は母に電話をしていた。

相談することもあったけど、母の話を聞くだけでも元気が出ていた。

母はおしゃべりで、口から先に生まれてきたんじゃないかって思う。私の話を聞いてもくれたけど、それ以上に母がしゃべることの方が多かった。

どうでもいいことの方が多い母の話を聞いていると、自分の悩みなんてどうでもいいと思えてきたりもした。

でも、そんな母はもういない。

一年前に亡くなってしまった。

もう適当におしゃべりしてくれる人はいない。

それは今日みたいに落ち込んだ日には辛くて、涙が出てきてしまう。

「お母さん……」

ポケットから取り出したスマートフォンをじっと見つめる。母の番号はまだ消していない。チャットの履歴もそのままにしてある。

どれだけ未練がましいんだろう……。

「……誰か出るかな」

かなり疲れていたし辟易していた。だから、ちょっとしたいたずら心が湧いただけ。

スマートフォンの電源を入れて連絡先を開く。

一番上に出てくる【母】の文字をタッチした。

この電話に出てくれた人だったら誰でもいい。定形分のアナウンスでも構わないと思った。

 

Prr……Prr……『もしもし!』

 

(あ。出ちゃった)

『もしもし!もしもし!

女性の、かなりテンションの高い声が聞こえてくる。

でもどうやら私に話す元気はないみたい。このまま切られるまでほっておくのが無難だろうか。

(話すことないし、いっか……にしても懐かしい声……)

『もしもし!もしもし!ケイちゃんでしょ?もしもし!』

「え…」

私の名前は確かに、「ケイコ」で「ケイちゃん」と友達からも家族からも呼ばれている。

偶然なんだろうか?

『ちょっと!久しぶりなんだから話聞いてよね!あ、ついでに声も聞かせてー』

いや、このテンション……かなり知ってる。

『ケイちゃーん!またフラれて拗ねてるの?それとも友達とケンカした?あ!もしかしてマリッジブルー!?いつのまにそんな相手できた「勝手な妄想しない!」

(あ……)

誰だかわからない相手になんてことを言ってるんだろう……勝手にこっちから電話しといて最初の一声が怒鳴り声なんて……。

「えっと、ごめんなさい!私『やっぱりケイちゃんじゃない!どうして黙ってたのよ~!お母さん悲しかった~』

全然悲しくなさそうな声で彼女はそう言った。

本当に、お母さんなの?

「……」

『まただんまり?あ!疑ってるんでしょ!でも電話してきたのはそっちじゃない~。どうして繋がったのかはお母さんにもわからないから聞かないでね♪』

「なんでそんなに軽いの……」

『だってそんなの考えてもわからないじゃない?だったら久しぶりだし、ケイちゃんとたくさん話した方がいいでしょ?』

 ああ……この楽観的簡潔な思考回路は母そのものだ。ありえないとか、うそでしょとか、夢かもしれないとか、いろいろ思ったけど、それをすっ飛ばして、ただ嬉しかった。

「おかあ゛さん?」

『え?泣いてるの?ケイちゃん泣いちゃったの!?もう~~もうすぐ社会人なんだからお母さんに電話したぐらいで泣いちゃダメでしょ~?一人暮らしして4年よね?今更ホームシックになるなんてお母さん恥ずかしいわ~』

「ばか!もう社会人よ!いなくなって一年たったんだよ!」

『あら?そうなの!?一年経ったんだ~!じゃあお母さんは一歳ってことかしら?やだ若い!!』

「もう~~……何言ってんのよ」

 本当に馬鹿みたい。母はいつまでも母だった。なんでも笑いに変えてくれて、私が落ち込んでたら笑顔にしてくれる。我が家の太陽のような人。

「ありがとう」

『ん?どういたしまして~。それで聞いてよ!実は私今ね……』

 それからしばらく母の無駄話が続いた。そっちの世界でも母はマイペースで好き勝手やってるらしい。鬼さんに怒られたとか、同期(?)に呆れられたとか、私が向こうに行ったら菓子折りを持っていかなくちゃいけない人たちがいっぱいいるようだ。

『それで?ケイちゃんは?しんしゃかいじん~♪』

「私?私は……まあ、普通だよ」

 突然話を振られて言葉に詰まる。相談したいことがあったのに、この楽しい空気を壊したくなくて言葉が引っ込んでしまった。

『そう?お母さんはそんなことないと思うんだけどな~。お母さんもね、最初の一年は理不尽な事とか、理想とのぎゃっぷで戸惑ったりとかしたもん』

 もん、って……いくつよ。

「うん、私もそんな感じ。戸惑ってるよ」

『でしょ~!でもね、それも勉強よ!同じことを後輩にはしないぞ!って、こんな大人にはならないぞ!って、そんな風に考えたら前向きになれるわよ』

「そうだね……同じにはならないようにする」

『大丈夫!ケイちゃんはお母さんと違っていい子だもん!』

「うん。ありがとう。私、お母さんみたいになるね」

 私がそういうと、電話から声が聞こえなくなった。どうしてだろう……こういうことを言うといつも母は私をちゃかしてきた。

「お母さん?」

『…………ありがとう。ごめんね。もっと、たくさんのこと教えたかった』

 初めて聞いた、母の涙声に、私はまた目を潤ませることになった。

 寂しかったよ。苦しかったよ。辛かったよ。これからも淋しいよ。辛いよ。でもね、

「大丈夫だよ。私、お母さんの子だから!」

 明るく、みんなを笑顔にする人になるよ。

『大好きだよ。みんな。だいすきだからね……』

「ありがとう」

『うん!ハハハ!ケイちゃんになぐさめられちゃった!』

 ハハハ、と笑う母の声はだんだんと小さくなり、最後には聞こえなくなっていた。

 私はそれでもしばらく携帯を耳から離すことができなくて、じっと余韻を感じていた。やっと離すことができたとき、画面を見ると真っ暗になっていて通話履歴を見ても母にかけた履歴のとなりには『不在』と表示されていた。

 もう一回かけてみたけど、それは女性アナウンスの声で使用されていない番号だと告げられる。

 あの会話は夢だったんだろうか……ふと時計を見てみると、日付はとっくに超えていて2時なろうとしていた。

「時間は進んでる……」

 それはさっきの会話があった証明にはならないけど、私の中の母だったらきっと電話に出たら同じように私を慰めてくれたはず。

「わたし、お母さんみたいになるよ」

 もう一度、改めて決意を言葉にする。

 その様子を母が見てくれている気がした。

 

END