私には変わったクラスメイトがいた。
彼はなぜか毎日ちゃんと学校に来ていた。
当たり前のことじゃないかって?まあ、普通の生徒ならそうかもしれない。でもそのクラスメイトは……
「おい。なんか変な臭いしないか?」
「うわっ!お前あっちいけよ!」
「…………」
「うわぁ~くっせぇ!」
いじめられていた。
しかも、学年中から。
理由は体臭。しょうもないでしょ?都会の満員電車に乗ったら嫌でも嗅ぐことになる臭いだ。だけど、主な交通手段が親の運転する車なド田舎中学生には馴染みのない臭いだった。
「ちょっと……あっち行こう。あれの臭いがする」
「うん。私、気持ち悪くなってきた」
そう言って数人の女子グループは例の子……S君から離れていく。その様子をチラリとS君が見ているのに気づかない振りをして。
とてもくだらない。くだらないから私は付き合う気はなかった。
「ねえ藤堂さん、他の所に行こう」
「何で?」
「え?……臭わないの?」
「私、鼻が鈍くてさ」
友達の笑顔が一瞬固まったが知らない。だって、体臭だよ?お父さんから似たような臭いがするのに臭いとか言っていられない。
「でも、ユウリンが嫌なら場所変えようか」
「う、うん!」
くだらない。だけど、全く無視するわけにはいかない。だって標的がこっちになったらもっと面倒くさいことになる。
だから私は何もしない。一緒になってワイワイする気もないけど、正義の味方を気取って友達になりたいわけでもない人を救う気もない。
『傍観者』っていうんだっけ。こういうの。結局は共犯だって、道徳で言われた。そう言われても構わない。だって私だけじゃないし。後ろ指差される事があったとしてもその他大勢の一人。名指しされるとしたら、今まさに暴力をふるっている奴らと、それを横目に見ても注意せずに通り過ぎた担任だろう。
傍観者で結構。わが身を守れるのは自分だけ。ヒエラルキーの低い私は保身に努めさせていただきます。
そうやって保身に走っていたから余計に思う。どうしてS君は学校に来るのかと。
学校に来ても臭い臭いって言われるし、先生だって助けてくれないし、話の出来る友達だっていない。でもS君は毎日学校に来ていた。
中学二年の一年間しか同じクラスじゃなかったけど、すごいなと、思っていた。今考えると、最低な感想だ。
そんな感じでいじめの標的は変わることなく一年が過ぎ、さらに一年が過ぎて卒業をした春休み。新しく買ってもらった自転車で四月から通う高校までの道を走ってみた帰りだった。
たまたま、前から犬の散歩をしていたS君を見かけた。
バカな私は自分のしたことを忘れて彼に笑顔で挨拶をした。
「じゃあね!」
自転車と徒歩だ。すれ違ったのはあっという間。でも、その一瞬でも見えたもの、聞こえたものを、私は今でも忘れていない。
「……じゃね」
目を見開いた驚いた顔と、布がこすれるような小さな声。
私はS君の声を初めて聴いた気がした。
さらに時は流れて、社会人三年目になって都会での仕事を辞めて地元に戻ってきた。逃げてきたともいえる。実家で半年くらいのんびりしていたあと就職した先はド田舎でもまあまあ名が知れている企業の工場だった。
そして、そこではある男がやたらと偉そうな顔をしていた。
「森田課長、これはどう思いますか?」
「森田課長!一緒にお昼はどうですか?」
「森田課長~午後からのミーティング来てくれますよね~?」
顔は不細工ではない程度だが、二十五の若さで課長を任された有能株は未婚女性社員に大人気。まあ、そのことはどうでもいい。見ていて気持ち悪いけど吐くほどじゃない。
だけどね、その『森田課長』のことを、私はよく知っている。
二年B組。中学校の頃に同じクラスだった男子生徒の一人。
「あ~それは…ここの言い回しを変えたほうが稟議には通るかもしれないね。お昼は部長たちと約束してて、また今度誘ってね。ちゃんと覚えてるよ。一時半からでしょ」
まるで欠点のないできた人間のような振る舞い。物言い。優しくて頭もいいとか言われている。
S君のことを率先して虐めていた人間がさ。
少しでも罪悪感を感じた?反省した?後悔した?自分がやったことを解ってる?解っていて、そうやって笑っていられるの?
私にはできない。
彼の驚いた顔を思い出すと、自分が人に称えられることに耐えられない。
あんたは違うの?
「ねえ、どう思ってんの?」
偶然、声をかけられた。工場からの帰り道。好かれるのが当然のような笑顔で近づいてくる彼に寒気を覚えた。でも、誰もそばにいない今なら、聞いてもいいんじゃないかって思えて、私は彼の誘いに乗って喫茶店に入った。
彼も、私のことを覚えていた。意外なような、そうでもないような気がした。森田君はクラスのムードメーカー的存在だったから、クラスのみんなに、とりあえずといった感じで声をかけていた。私も内容は忘れたけど、話した記憶がある。だからこそ、彼が虐めに加担したのはクラスの方向を決めるようなものだった。
喫茶店で席に着いたとたん、彼は仕事のことで悩みがないかとか、人間関係はどうだとか、良い上司の鑑のような質問をした。
それに腹が立った私は笑顔の彼の言葉を鼻で笑って、冒頭の質問を投げかけてみた。
「え?えっと……見た感じだと、仕事に支障はなさそうだとは思っているけど……」
「違う。S君のこと。よく、あんなことしといて偉そうにふるまえるね」
「……どういう意味だよ」
彼の顔から笑顔が消えた。怒っていると空気から感じる。私はそれがいい気味だと思うけど、小さな疑念も生まれた。どうして『怒る』のだろうって。
「そのまんまの意味よ。解らないのよ。あんなことしといて、どうして笑っていられるのか。私だったら、耐えられない。そんな人間じゃない。そんな人間じゃないって。泣きたくなる」
「……藤堂も、後悔してるのか?」
「『も』?あんた、後悔してたの?反省してたの?」
それで笑っていたられたの?正気?
「してたよ。当たり前だろう。高校に入ってからずっと」
「ずっと……」
じゃあ、今も?
「俺さ。中学の頃、両親が離婚したんだ。二年生の終わりにね。一年の秋ぐらいからずっと家で喧嘩しててさ、イライラしてたんだよ。うるさい!黙れ!って何度も言いたくなったけど、母さんがいつも泣くんだ。『公平は私の見方だよね?』って。そんな弱ってる母さんに怒鳴ることができなくてさ。Sのこと、代わりにしてたんだ。家で吐き出せないうっぷんを晴らすために」
「……知らなかった」
彼に、森田君にも理由があったなんて考えもしなかった。いつも誰かと話して、笑顔だったから……自分が恥ずかしい。
「言わなかったからさ。で、三年には離婚して、母さんと二人になって、いろいろ手続きして、母さんが立ち直ったのが、俺の高校が決まってから。良い高校に入ったんで喜んでくれてさ。それから家の中が明るくなったんだ」
「じゃあ、今はお母さん、元気にしてるんだ」
「ああ。一人は嫌だってことで地元に就職先も大学も縛られたけどね」
私の両親は好きにしていいって言ってくれたから、大学も県外に行けて、就職先も好きに選べた。私より、ずいぶんと森田君は苦労も我慢もしてきたんだろうな。
「そんな感じでいい雰囲気になってからさ、ふとSの顔が浮かんだんだ。俺、最低だったって反省したし、後悔したんだよ。なんであんなことしたんだろうって。理由もなく巻き込んで、自分の気を紛らわせるためだけに虐めてさ。合わせる顔がないくらいに落ち込んだ」
私はどうだろう……森田君の顔を見て怒りを覚えたり、S君の顔を思い出してショックを受けたりするだけで、反省も後悔もしていない。
私だって『共犯』だったのに……森田君だけを責めていた。
「だから、お前の言ったことわかるよ」
「え?」
「『そんな人間じゃない、そんな人間じゃない』って、俺も思ってる。でも、あの時のことを言える勇気なんてなくてさ。だったら、笑って受け止めるしかないだろ」
それ以外に何ができるんだ?そう、逆に問いかけられている気にさせる、苦しそうな顔を森田君はしていた。
私は顔が熱くなった。恥ずかしくて、虫にでもなりたい気分だ。
ちゃんと反省して、考えてきたんだろう森田君の傷を抉った。それも中身のない正義心で、勘違いも甚だしい。
私こそ、最低だ。
傍観者だから。当事者じゃないから。共犯だってわかっていたくせに、解ってなんていなかった。どこかで私は悪くないって思っていたんだ。
だから反省も、後悔も、懺悔もない。
そのくせ、一丁前に正義の味方を気取って、森田君を見下していた。
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ。悪いのは俺だって解ってるし。お前も後悔してたんだろ。だから怒ってたんだろ」
そう言って向けてくれる森田君の笑顔が眩しかった。
私に都合のいい言葉に頷きそうになるのを必死に止めて、首をなんとか横に振る。
「ちがう……私、後悔なんてしてなかった。してるつもりでいただけだった。森田君みたいにちゃんと受け止めてない。どっかで自分を許してた」
ごめんなさい。そう、もう一度謝ったけど、蚊の鳴くような小さな音で、余計に情けない気持ちになる。
「……俺さ。Sのことがあったから、会社ではいじめが起きないようにしようって思ってるんだ」
唐突な話の切り替えに、森田君のほうに俯いていた視線を上げた。森田君は真剣な表情をしていた。
「同じ気持ちなら、藤堂にも手伝ってほしい。女子同士の噂話なんかは俺には聞こえてこないからさ。なんか前兆とかあったら教えてほしいんだ」
それが、森田君の反省の形なんだろう。
ちゃんと行動ができる森田君はすごい。
(便乗するみたいでいいのかな……)
これは森田君の反省の形だ。私は、私の反省の形を作らないといけない。
「うん。解った。連絡するね」
「!藤堂!ありがとう!」
そう言って森田君は頭を下げてきた。いやいや、それは私の方よ。
「私の方こそ、ありがとう。気付かせてくれて……」
「いや、話せてよかった。ずっと溜めててさ……誰かに話せるって、やっぱいいよな」
「そう?」
「ああ。藤堂って話しやすいし」
「ふ~ん……?」
「ああ。なんとなくだけど」
「なんとなくかい!」
自然と笑顔がこぼれた。二人で笑ったのはこれが初めてだと思う。
それから暫くこれまでの経緯とか、職場でのこととか話して、私たちは分かれた。
森田君の背中を見送って、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで家に帰る。
私も、何かをしなくちゃいけない。
傍観者だって当事者なんだから。
忘れたらいけない。
END