アリスは穴に落ちて落ちて落ちて―――――ずっっっっっっっっと落ちて、
そうやってたどり着いたのが『不思議の国』だった。
不思議の国では花が歌うし、ドアノブがしゃべるし、奇妙な生き物がたくさんいた。
現実にはいないものや起こり得ない出来事がたくさん起きるのに、不思議の国の住人はそれらが当たり前のことのように生活している。
周りの生き物たちにとって『あたりまえ』でも、アリスにとっては『ありえない』出来事ばかりだ。
だからアリスは自分が正常であると思うためにその世界そのものを否定した。
『不思議の国』と呼ぶのはそのためだ。


自分は正しいとするために周りを異常だと位置づける


【そんなのおかしい!君は変だよ!】


だから自分たちは正しいのかい?
だから自分たちの考えは正論だというのかい?
だから相手を好きなだけ罵っていいのかい?


――もう、うんざりだ!


ここは僕にとって不思議の国だった。
周りは僕に似ているようで全然違う。
きっとアリスと同じ。現実の僕は寝ているんだ。ここは夢の国なんだ。
もうそろそろ起きなくちゃ。
そうしないと母さんが心配している。


「お前はもしかして飛び降りるつもりなのか?」
「っ!!?」


一人だと思っていた。
だって今は授業時間だし。
ここは屋上だし。
鍵は開いていたけど……立ち入り禁止の場所なんだし。
「何を驚いている。俺はお前が来る前からここにいたぞ」
「……え」
「フラフラと現れて何をするかと思いきや、いつまでも景色をぼーっとながめ、かと思ったら柵を超えようとし始めたから声をかけた」
「な、なんで?」
「俺がここにいる状態で君が飛び降りたら、俺が殺したことになるだろう?
そんな要らなん疑いは被りたくない。悪いが図書室に行くのでその後にしてくれ」
そう言うと僕と同じ制服を着たその生徒は自分の荷物をまとめ始めた。
僕は決まった覚悟が揺れていた。
だって、ここ数か月、まともな会話なんてしたことなかったんだ。
存在を否定される言葉を吐かれることしかなかった。
それが苦痛で、虚しくて、やるせなくて、もう死ぬしかないって思ったのに……
なのに、話してしまった。
「ね、君は?なんて名前?どこのクラス?」
「?はて?名乗る理由がない」
「ない……けど、僕は、誰かと、話したくて……」
「つまりお前のために話せと?」
「まあ……うん……そんな、ぎり、ないかも……だけど」
「そうだな。よくわかっているじゃないか」
久しぶりにできた会話はこれで終わった。
何だ。普通の会話ってこんなものだったんだ。
夢見すぎてたな。もっと楽しいものだと思っていたのに……。
やっぱりここは僕が知っている世界じゃないんだろうか。
「さてはお前、矢吹卓か?」
「え!?ど、どうし、て」
「やはりか。牛蒡のような見た目のくせに授業をサボるなど珍しいと思った。
不登校の生徒なら納得だ。同じ一年のネクタイをしているからすぐにわかったぞ」
「あ……そ、そう……」
君も似たような体型じゃないか。
とは、言い返せなかった。
こんな授業をサボるような彼でも僕を知っているのは、入学してすぐにいじめにあって別室登校をしていたからだろうか。
それともいじめの原因が異常だったからだろうか。
どっちにしても何だかこの生徒とこれ以上話していたくなくて、僕は彼に背を向けた。
「何だ。もう終わりか?では行くぞ。久しぶりに話せて楽しかった」
「え?」
「ん?」
「いま、なん、て?」
驚いた。
最後の一言に。
『久しぶり』って何のことだろう。
「楽しかったといったが?」
「その、前。久し、ぶりって……」
「ん?俺はお前と同じクラスの加賀見だ」
――カガミ……
口の中でその名前を転がす。
彼に限らず、僕はクラスメイトの顔と名前をほとんど覚えることなく通えなくなった。
でもなぜか引っかかる。
『久しぶりに』ということは、以前に話したことがあるのかもしれない。
それはつまり……罵声を浴びせてきていた奴らの一人ということだろうか。
「そう言えば名前を聞かれていたな……ということは覚えていないのだな。この俺を忘れるとは心外だ」
いや。こんなしゃべり方で罵られたら印象に残っているはずだ。
忘れられるはずがない。
「ご、ごめん……」
「まあいい。こうやって話すのは初めてだ。桜も散らぬうちに登校拒否となった奴が忘れるのも無理はない」
あれ?今度は『初めて』って……
「どうした?何か聞きたいことがあるなら言え」
「さっき、久しぶりに、話したって……前に、も、はな、したと……」
「あ~。それは『俺が』他人と久しぶりに話したという意味だ」
さっきから僕は加賀見くんに驚かされてばかりだ。
これだけハキハキと話しながら僕と同じことを思っていたなんて誰が想像できただろう。
まさか彼もイジメられているのだろうか。
同じクラスということは、僕がいなくなったことで新しくターゲットにされたってことになるのだろうか。
「えっと、その……ごめん……」
「勘違いは誰にでもある。気にするな。それでお前は飛び降りないのか?」
「それ、聞く?」
「それ次第で俺の予定が決まるからな」
「……きょうは、やめとく」
「……なるほどな。『今日は』ということは、別の日にやるということだな」
「……た、たぶん」
「そういう奴に次はない」
「!?」
それって『死ね』って言ってるの?
そんなにどうでもいいだろうか……そうだよね。どうでもいいんだよね。
加賀見くんがさっきから話してるのは自分のことばかりなんだから。
僕が死のうが生きようが関係ないよね。
僕にとってだって加賀見くんがこのあと階段から落っこちて死んだってどうでもいいんだから。
ただ出くわした不幸な少年ってだけだよ。
そうだよ……僕にだって関係ないんだから、加賀見くんにだって関係ないよね。
他人の生き死になんてさ。
「何を落ち込んでいる?」
「……べつに」
「そうか」
「…………気にはならないの?」
「話したくなくて言葉を切った。だから聞かない。
はたまたその行為が俺の情を誘うつもりだったのだとしても、それに乗ってやる義理はない。
話さないと決めた自分の決断に責任を持て。他人を頼るな」
「せ、せき、にん?たよる?」
加賀見くんの言っている意味がよくわからなかった。
いったいいつ僕が他人を頼ったんだろうか。
そもそもこんなことぐらいに『責任』何て言葉は重すぎないだろうか。
「そうだろう。今お前は、お前の気持ちを吐き出す許可を俺に求めた。
何故求める?そんなの好きにしていいはずだ。
そうやって自殺した理由を俺が話を聞いてくれなかったからとするつもりか。バカバカしい」
「そ、そんなつもり、ないよ!。加賀見くんに何かされたわけじゃないし……」
「じゃあ何故黙る。聞いて欲しいなら話せばいい」
「だって、加賀見くんに、関係ないし」
「当然だ」
「だから……言っても、意味、ない」
「じゃあ誰に言ったら意味のあるものになるんだ」
『誰』に……そうか。そうだよね。
「だれ、に、も」
そうだ。誰に言ったところで意味なんてない。
僕が生きるか死ぬか。大事なのは僕だけだ。
「そういうものだ。何事も、自分以外にとってはどうでもいい。意味なんてない。
だから言う機会があるなら言ってしまった方がいい。いつでもいいだろう。何を躊躇う」
「そう、だね……うん」
加賀見くんの言いたいことが何となく解った。
好きな時に話していいんだ。彼は、僕が話すならちゃんと聞いてくれる。
僕の意思を尊重してくれるって言ってくれているんだ。
「あのね。僕、普通じゃないんだ。左のね、耳がね、無いんだ」
「らしいな」
「うん。それでね。気持ち悪いって、言われた」
「そうか」
「でもね。右耳があるから聞こえるんだ。左の方でこそこそしてても、なんとなくわかるんだ。
悪口言ってるの。気持ち悪いって、言うの」
「そうか」
「そんなに、気持ち、悪いかな……」
生まれた時から、僕に左耳はなかった。
理由はわからないらしい。
左の耳が無い分、右の耳がすごくよくて、特に気にもしなかった。
運が良かったのは引っ越しがなかったこと。
お陰で幼稚園から中学校まではずっと同じ友達と一緒にいれた。
小さいころから一緒だった彼らは誰も僕の耳のことを気にしなかった。
だから高校に入って初めて向けられた奇異の眼にどうしていいかわからなかった。
何も変わらない。左耳は無いけど、その分右耳が良く聞こえる。
そう説明しても同級生たちの眼は変わらなかった。
初めて耳が無いことで苦しんだ。
耳が無くて嫌われて……でも生やすことなんてできなくて……僕がそう言ったら今度は母さんが泣いてしまった。
そしたらもう誰にも言えなくて、クラスに入れなくなった。
それでも学校に行くのは家にいたら気まずそうな母さんと目が合うから。
家でも学校でも生きづらくて……だから今日、ここに来た。
「耳が無いのが気持ち悪い?この世には手や足がない人もいる。そういう者たちも気持ち悪いのか?」
「……いや、僕が言ったんじゃなくて」
「それはなんともつまらない人生だな」
「?」
また加賀見くんの言っている意味が解らなくなった。
彼には彼の独特な世界観があるように思える。
「考えてもみろ。お前のように生まれ持って体の一部が欠けている者がいる。さらに事故などの出来事で失ってしまった者もいる。
そういう者たちを見るたびに不快になるなど、損な人生だと思わないか?」
「え……どう、だろ?」
そんな風に考えたことなかった。
「俺とそいつらの考え方は相いれないな。そんな狭い世界で生きていくつもりはない」
なんだろう。
加賀見くんの世界観は独特だし。きっと彼の言っている半分も理解できてないかもしれない。
でも、彼は、『僕』を肯定してくれている。
『僕』じゃなくて、僕を否定する『世界』の方を否定してくれている。
そんな気がした。
そんな気がしたから、僕は、なんだか胸の奥に風が吹いたような気がした。
「加賀見くんは、この世界を、不思議の国って、思ったこと、ある?」
「不思議の国?そうだな……理解できないことが多い。何故そんな判断をするのか?なんてことはたくさんある」
「例えば?」
「テストの順位。理解度を教師が知ることができればいいだけのはずなのに、なぜ順位をつける必要がある?」
「う~~ん……闘争心を、あおる、ため?」
「煽ってどうする?」
「えっと、それで、勉強を、がんばる人がいる、から……かな?」
「煽ることでやる気を無くす者もいる。だったらどっちでも同じじゃないか?」
「だったら、付けてもいいんじゃない?」
「リスクが高い。やる気だけじゃなく、順位が原因で不当な行為を受けることだってある。虐めがいい例だ」
「そう……かも、ね」
僕は加賀見くんの答えをもう一度考えた。
この世界には『理解できないことが多い』。
僕もそう思う。
どうして、彼らは僕を気味悪がるのか。
同じなのに……ちゃんと聞こえてるのに……解るのに……。
「どうして、僕は、いじめられたのかな?」
「意味なんてない。あるとしたらただやりやすかったというだけだろうな」
「そんな理由で……」
「そうだな……不思議の国という表現は、合っているのかもしれないな。俺には理解できないことが多すぎる」
僕にもだ。
僕にも、理解できないことが多すぎる。
はじめて加賀見くんと意見が合った。
「……加賀見くんってさ。変わってるよね」
「同じ奴なんていない。違っているのは当たり前のことだろ」
「うん。そうだね。僕と、加賀見くんは、違う。同じじゃなくて、いい」
「ははは!お前とは気が合いそうだな」
そうかもしれない。
加賀見くんが言うことの半分も理解できていない僕だけど、一緒にいて居心地がいい。
「それで。じっくり話してしまったが、お前はこれからどうする?」
「うん。別教室に、戻る。プリント、しないと」
「なら自殺はなしか」
「うん。なんとなく、ね」
「そうか」
加賀見くんは僕の返事を聞いて笑った。
「加賀見くんはどうするの?」
「俺は読書の続きをする」
「……だったら僕がいる部屋に来る?」
彼が不思議そうな目で見てくるから、今度は僕が笑った。
「ここ。風ふくし、先生に見つかると、面倒だよ?僕のためにって、ことにしたら、部屋にいても怒られないよ」
「なるほど。静かに屋内で過ごせるのはいいことだな。しかし。俺は先生に見つかりたくない」
「なんで?」
「今は頭が痛いことになっている」
その答えに、僕は声を出して笑った。
授業をそんなことを言って抜け出してきたんだ。
きっと彼は頭が痛いと言いながらも堂々と教室を出て行ったんじゃないだろうか。
ウソだというのはバレていそうだ。
「言っておくがウソじゃないぞ。つまらん幼稚な教師と生徒のやりとりを見てて頭が痛くなったんだ」
「ふふふ……加賀見くんらしいね」
今日はじめて会ったのに『らしい』なんて、ちょっと踏み込みすぎたろうか。
でも加賀見くんの顔に不快の色は見えない。
許されている。
とても居心地が良かった。
「加賀見くんが動かないなら、僕も、もうしばらくここにいていいかな?」
「勝手にすればいい。単位はしらないぞ」
「加賀見くんも、ね」
俺は平気だ、って自信満々に言った加賀見くんはすぐに読書に集中し始めた。
隣でページをめくる音を聞きながら、僕は空を見上げた。
すごくきれいな色をしていた。
昨日までの空の色はもっとくすんでいて、こんなに輝いていなかったはずだ。
ううん。そんなことない。
空の色は変わっていない。僕が変わったんだ。
空を綺麗だって思ったり、風を気持ちいいって思ったりできる余裕ができた。
まだ教室に行きたいとは思わない。
でも、たまに、一日に一回でいいから、加賀見くんとこうして過ごせたらいいな。
そんなことを考えていたら、授業の終わりを告げるチャイムが鳴りだした。
加賀見くんは本を閉じて立ち上がった。もう、教室に帰るのだろうか。
ちょっと寂しくなりながらその背中を見ていると、彼は何か思い出したように振り返った。
「そうだ。……俺の名前は加賀見闘太だ」
「ん?あ。僕は、矢吹卓、です」
「うん。また授業がつまらなくなったらそっちの教室に行こうと思う。静かなんだろ?」
「う、うん!先生たち、僕が呼ばないと、来ないから」
「よし。なら丁度今から昼食時間だ。卓の教室を見に行く。連れていけ」
「うん!!」
僕は闘太くんを臨時教室に案内した。
一緒にお昼も食べた。
久しぶりに楽しいって思えた。


僕は不思議の国から脱出することはできなかった。
アリスのように目が覚めたら……なんて奇跡も起きていない。
ただ、僕のいる不思議の国には他にも迷い込んだ人がいてくれた。
その人にとってもここは不思議の国だった。
一人じゃなかった。
一人じゃないって思えたから、僕はこの不思議の国で生きていく決意ができた。
彼と一緒に過ごすうちに、僕は不思議の国から脱出する。

それは長い道のりだったけど……振り返ったら、ほんの一瞬の出来事でしかなかったよ。


END