短い針がとうの昔に頂点を過ぎて、今では右斜め下まで移動している。
もうすぐ可愛い我が子が帰ってくると、寧音は鼻歌を歌いながらみそ汁をかき回した。
今夜は佑都の大好きな揚げ物を用意している。
ちゃんと「ただいま」「手洗い」「うがい」が言わなくてもできたら自分の分のエビフライをあげよう。
エビフライを見た息子の喜ぶ顔を想像して寧音は口元に綻ばせた。
――ガチャ 「ただいま~」
まず第一段階クリア。
弾む気持ちを抑えてIHの電源を切り、寧音は玄関に向かった。
そこには先ほどまで頭の中で笑っていた主人公が、顔を俯かせて立っていた。
「おかえりなさい。どうしたの?」
そう聞かずにはいられない表情をしている。
寧音は帰ったばかりの息子を玄関で抱きしめた。
「学校で何かあったの?また先生に怒られちゃった?」
やんちゃな息子は先生によく怒られたと報告をしてきた。
理由はほとんど授業中の悪ふざけだ。
その話を聞くたびに寧音は笑って先生を擁護していた。
でもその時は自分が悪いことをして怒られたとわかっているのかちょっとお道化た調子で話す。
こんな暗い顔をして帰ってきたのは、学校で買っていたメダカが死んだときくらいだ。
「ちがう。せんせいにもおこられたけど……」
「けど?」
「…………ねえ。おかあさん。ぼくってわるいこなの?」
寧音は衝撃を受けた。
こんなに悲しそうな顔で息子が自分のことを悪い子だと聞いてくる。
彼にとって【悪い子】は【犯罪者】と同じ意味なのだろうか。
寧音には息子の顔に「生まれてこないほうがよかった」と書いてあるような気がした。
「どうし……そんなことないよ。佑都はいい子だよ。
お母さんの自慢の子よ」
どうして?と、問う前に息子の考えを否定しなくてはと頭が働く。
寧音は佑都の小さな体を抱きしめて何度も何度も【いい子だよ】と囁く。
佑都の涙が肩を濡らすのを感じながら、寧音は佑都の肩を濡らした。
いったい誰が最愛の息子をここまで傷付けたのか。
寧音の中に怒りと憎しみが渦を巻き始める。
今すぐにでも息子が傷ついた理由を知りたいが、彼が泣き止むまでぐっとこらえた。
そのせいか、彼が泣き止むころには沸き立っていた怒りは収まり冷静に彼の話を聞ける準備ができていた。
「佑都。何があったのか教えてくれる?」
頷いた佑都は目元に残った涙を拭い、幼い彼なりに言葉を選びながら寧音に話した。
佑都にはクラスで嫌いな女の子がいた。
小百合という名前のその子は、よく佑都のことを突いたりちょっかいを出したりして虐めてくるらしい。
今日の社会科の授業はクラスを五つのグループに分けて調べ物をすることになった。
そのグループ分けの時に事件が起きた。
小百合ちゃんが佑都のいるグループに入ってきたのだ。
いつも意地悪をされるので佑都はそれを嫌がった。
「みんながね、それでね、ぼくがさゆりちゃんのことすきだ、みたいにいうの。
でもぼくがすきなのは、まみちゃんなの。だから、いやだったからね、さゆりちゃんなんてきらい!っていったの」
佑都は周りの冗談(いや、子供だから本気の子もいただろう)に刺激されて咄嗟に【嫌い】と言ってしまったのだ。
それで笑い話で終わればよかったかもしれないが、どうやらその一言で小百合ちゃんが泣いてしまったらしい。
あっという間に女の子たちが集まり佑都は悪者扱いされた。
「最低」「酷い」「最悪」と、罵ってくる中には佑都の好きな真美ちゃんもいた。
その真美ちゃんに言われたらしい。
「きらい、っていうなんて、さいていだって……きらいになるなんてひどいって、いわれたの」
「……なるほどね」
寧音はことの次第がわかりほっと息をつく。
そしてどこから話をしようかと考えた。
「佑都。お母さんは、嫌いにな人がいること自体は悪いことじゃないと思うの」
「どうして?すききらいはダメっていつもおかあさんだっていうよ?」
「食べ物は栄養が偏るからダメなの。でも、嫌いと好きを作ることは悪いことじゃないと思うんだ。
佑都は真美ちゃんが【好き】なんでしょ?」
「……うん」
「なんで真美ちゃんのことを【好き】なのかな?」
「まみちゃんはね、やさしいの。あと、あたまもいいの。それとね、わらったかおがかわいいんだよ!」
顔を真っ赤にして語る佑都の初々しい姿に癒されながら、寧音はそうなんだねと頷いた。
「じゃあ、それと逆の子は嫌いなんじゃないの?」
「ぎゃく?ん……やさしくなくて、あたまがわるくて、わらったらきもちわるいひと……」
私でも無理だわ。と、寧音は心の中で思った。
しかし佑都は悩んでいる。
「き、きらいじゃないけど……にがて、だと、おもうの」
「そうなんだね。……嫌いってね。好きな人がいる人は絶対にいると思うのよ」
「?どうして?」
「【好き】があるのはね、【嫌い】があるからよ。
【嫌い】があるのはね、【好き】があるからなの」
「ん???」
「ふふふ。佑都はエビフライが好きよね?」
「うん!」
「でもピーマンは嫌いよね?」
「う、うん」
「エビフライを好き!って思えるのは、ピーマンを嫌い!って思うからなの。
好きなものを決めると、逆に嫌いなものも出てくるのよ。
それってしょうがないんじゃない?」
「でもおかあさんは、きらいなものないんでしょ?」
「実はね……お母さん、レバーが大っ嫌いなの」
「レバー?」
「お肉の種類。じゃりじゃりして焼いても生っぽい味がするから嫌いなの……」
「おかあさんもきらいなものあるんだ……」
「あるわよ。だってお母さんはオムライス大好きだもん!」
寧音がそういうと佑都は子供みたいだと笑った。
やっと笑顔になった我が子に寧音は安心する。
「佑都は真美ちゃんが好きなんでしょ?だったら、嫌いな人がいても仕方ないの。
お母さんだって嫌いな人いるんだから」
「どんな人?」
「佑都を泣かすような人!」
「え!ま、まみちゃんはわるくないんだよ!」
「ん~~それでも佑都を泣かしたからな~。お母さんは嫌いかもしれないな~」
「え~!!!そ、そんなのダメなの!」
佑都が再び泣きそうな顔をするので、寧音は慌てて冗談だと謝った。
本当はちょっぴり本気だったのだが佑都に免じて許してやろうと思う。
佑都は寧音の言ったことが分かってくれたのだろうか。
今はまだかもしれないが、いつかは解ってくれるだろうと寧音は優しく息子の頭を撫でた。
嫌うこと自体は決して悪いことじゃないことに。
「でもね、佑都。人前で【嫌い】って言うのはダメよ。ましてや泣かせちゃうなんて。
他人を傷つけるようなことを言ったらダメって、お母さん言ってたよね?」
「……はい」
「一緒に小百合ちゃんに謝りに行こうね」
「……うん」
思う分には良いが、それをわざわざ伝えることで他人を傷つけるてはいけない。
寧音はそれを佑都に言い聞かせた。
「無理に仲良くしろとは思わないの。さっきも言った通り、嫌うこと自体は悪いことじゃないの。
でもね。佑都が嫌いってことは誰かは好きかもしれないってことなのよ。
お父さんは佑都の大嫌いなピーマンが大好きでしょ?それと同じ。
佑都はお母さんが真美ちゃんを嫌いって言ったら嫌だったでしょ?」
「いや!」
「じゃあ小百合ちゃんのを好きな人は佑都が【嫌い】って言うことでどう感じたと思う?」
「……いや、だった?」
「うん。たぶんそうよ。好きな子を嫌いって言われてイヤだったと思う。
だから真美ちゃんたちは怒ったの。
大好きなお友達の悪口を言われて嫌な思いをしたからね。
解ったら、明日は真美ちゃんたちにも謝るのよ?」
「うん。あやまる」
「よし!偉い!じゃあ小百合ちゃんとこに行こう!」
「うん!」
頷く佑都の頭を撫でて寧音は出発の準備をした。
台所には揚げたての食材が油をきられて待っている。返ってくる頃には冷めてしまっているんだろう。
寧音は自分の皿からエビフライを取ると佑都のお皿に移した。
1つ成長したであろう息子へのご褒美だ。
嫌うことは悪いことばかりじゃない。
嫌いになるということは誰かを愛することができるということなんだ。
それはとても美しいことじゃないだろうか。
誰かに嫌われるということは、誰かに愛される存在だということだ。
それは誇らしいことじゃないだろうか。
物事には裏と表がある。
それらについて考えれば、世界の見方はぐっと広がっていくのだ。
END