高校時代

代々木上原に住んでいた文学少年の小林君は

数人の著名な作家にファンレターを送りましたが、

返事が来たその一人が

高橋和巳です。

 

私も小林君の影響を受け

「邪宗門」を購入して読みましたが

文学少年でもなく

彼よりも賢くなかったことも相成り、

背伸びをしても

読み切ることができませんでした。

 

10代の私たちにとって、

高橋和巳はカリスマ的存在でした。

 

闘争中の学生側を支持して

京都大学文学部助教授を辞職する潔い生き方だけでなく、

一読者への返信も通してもわかるように、

真摯な生き方が共感を得ていました。

 

 

 

「邪宗門」は「大本教」がモデルとされていますが、

 

高橋和巳が描きたかったのは、

どんな新宗教でも最初は持っていたはずの「世直し」の思想が

「迎合的平和主義」へと頽落していくの対し、

「世直しの思想を失わない宗教教団があったとして、

 それを貫いたらどうなるだろう」

という「思考実験」といわれていました。

 

世直し=学生運動という形で読まれたのかもしれません。

 

インテリ予備軍の小林君にない知恵を絞り

本気で「世直し」を考えて、それを実行に移せば、

国家権力によって叩き潰されるという「結果」は当時から明らかだったのに、

作品を通して何を伝えたかったのかと聞いたのですが


「結果」がどうなるのかではなく、そうした理想を貫こうとした人々が、どのように考えどのように行動し、どのようなところへ行き着くのかという「人間」の問題で、単純な「政治的勝ち負け」の問題でないようなことを話していました。

 

当時の高校生といえば、

言葉の意味も分からないまま論じ、

自分を賢く見せることが流行りでした。

 

おそらく、その時々に話された会話の一つひとつ全てが

どこかの安受け売りだったに違いありません。

 

 

「信念を貫く理想主義が、現実的な敗北の中でどのように生き得るか」

当時の時代背景が映し出されている言葉だと思いますが、

禅問答のようなループに落ち込みそうな問です。

 

「非の器」や「憂鬱なる党派」「日本の悪霊」にも挑戦しましたが歯が立たず、

書棚の飾りと化してしまいました。

 

唯一、読み終えることができたのはエッセイ集で、

共感を得たものがあり、未だに影響を受けているものがあります。

 

一つ目は、本を読み始め、自分には合わないと思ったら諦めるというもの。

読書は苦行ではないので、

金だけでなく、時間も無駄にしてしまう警告でした。

 

二つ目は、電車内での読書をやめる。

今でいうスマホを眺めている人達への雑感で、

人は思考を巡らせる時間を敢えて確保することは難しい。

私(高橋)は電車の中の移動の時間をその時間としている。

読書をしている人たちはどこでその時間を保証しているのか。

 

このような内容でした。

 

それ以降、暗くなった電車に乗り移動をする際は

車窓から漠然と外を眺めることが多くなり半世紀たちました。

特に、

夜の帳(とばり)が下りた家々や、明かりが灯された団地の窓を見る時間は、

各家庭の幸せそうな団欒を想像して時が過ぎていきます。

 

当時は、幼児が早稲田の角帽をかぶる漫画が流行るほど、

インテリへの憧れが大きな時代でした。

 

私にはその波に乗れず、

山に登ったり、踊りに行ったりと、

所謂、自堕な日々を送っていました。

 

心ある若者は、

坂口安吾の「堕落論」や太宰治の「人間失格」などの著書へ走るようでしたが、

人並みにかじってみましたが、

読み応えることができず、

高橋和巳の「自分には合わない本」、所謂「時間の無駄」ということで、

「なかなか良い本だった。」

と嘯(うそぶ)き、友達にあげてしまいました。

 

 

 

 

付録  03_京大文書館_20号_論文_渡辺恭彦.indd (kyoto-u.ac.jp)

1966年、高橋和巳は「朝日ジャーナル」に2年 間連載した『邪宗門』を刊行し、

小説家としての 仕事に一区切りをつけた。

 

翌67年6月、高橋は中 国文学の師である吉川幸次郎の後継者として京都 大学文学部に着任する。

これは、創作に重きを置 いた生活から学問に専念する覚悟を決めたことを 意味する。

 

この決断に至るまでのいきさつを書き 記した「楽園喪失」(1967)からは、

H氏〔埴谷 雄高〕の言葉が最終的に高橋の背中を押したこと が分かる。

 

もっとも、高橋の京都行きは、必ずし も周囲の人々すべてに受け入れられたわけではな かった。文学の同人はそれに反対し、和子夫人は 自身も京都に戻ることを拒否してフランスへ留学 している。周りはともかく、書生のような生活を 送ったと述べているように、学問しなおすことを 高橋が自ら選んだことは間違いないところであろう。

 

この決断は、結果的に高橋の行く末を大きく 変える分岐点となった。  学問への専心を決めた高橋の意に反して、京都 大学は喧騒につつまれる。1969年1月、京大闘争 が本格化する。

 

1月 31 日、高橋は京大文学部 第一講義室でおこなわれた学部長および教官と学友会との団交に臨み、席上で全共闘支持の所信表明を行った。その結果、高橋は教授会で孤立。さ らに、教員としての教育・研究に従事しながら、 寸暇を惜しんで学生運動家との対話や団交に応じ る生活は、高橋の身体を蝕んでいった。高橋自身、 運動に関わったことによる過労が病の原因であることを自覚しつつも、癌に侵されていることは長く知らされずにいた。

 

京大闘争に関わった体験を総括したルポルター ジュが、1969 年6月から 10 月に発表された「わ が解体」である。高橋の作品は、実体験を仮構し たものや題材を調べ上げて書かれたものが多い。

 

 硬質な文体が特徴であるその作品群のなかで、「わが解体」は高橋自身が直に体験した一連の出来事が率直な筆致でつづられており、稀有なテクスト となっている。高橋の気負いが投影されているとはいえ、高橋の学問や創作、現実との関わりが昇 華されて生み出されたものといえよう。  

 

高橋が批判を突きつけたのは、学問的にも敬意を払う教授陣であり、中には直接教えを受けた人物もいた。高橋が造反したのは、京大闘争への教 授会の対応を見て、積み重ねてきた学問的研鑽が そこに生かされていないと感じたからであった。

 

「わが解体」発表後、1970年3月に高橋は京都大学を 辞職する。その後、闘病生活のかたわら、季刊同人雑誌「人間として」を小田実・開高健・柴田翔・ 真継伸彦らと創刊したほか全共闘運動をめぐる対談や講演をこなしたが、1971 年5月3日に 39 歳 の若さで永眠する。

 

まとまった文章としては、『わが解体』(1971)に収録される「わが解体」、「三 度目の敗北—闘病の記」、「内ゲバの論理はこえら えるか」等が事実上の絶筆となった。