三越つながりで続きます。
千葉の三越の前身は「奈良屋」デパート
「奈良屋」の前身は「奈良屋呉服店」でした。

千葉には3大デパートがあり
・奈良屋呉服店→奈良屋百貨店→千葉三越(閉店)
              →跡地 セントラルプラザ(閉店)
・田畑呉服店 →田畑百貨店 →西武百貨店→パルコ(閉店)
・扇屋呉服店 →扇屋百貨店(跡地きぼーる)移転 →ジャスコ
                    
そのほかに
・千葉県内では数店舗有した 

・サカモト百貨店  ・十字屋→緑屋  ・江澤→丸興  ・ライオン堂
・ブルーチップスタンプで有名な清風チェーンなどがありました。

今回話題にするのは、
千葉三越裏手にできた「九州ラーメン」の店です。

当時は
・しょうゆ味の東京系
・味噌&塩系の道産子の札幌ラーメン系の2種の味が主流で、


スープの白く濁った
とんこつラーメンは存在すら知りませんでした。

東日本と西日本の文化の相違は大きく、
大井川から西はあらゆる面で違う文化圏でした。

江戸文化は粋で
関西文化は直接的な表現が多く
図々しく下品と感じていたのかもしれません。

しかし、そんな千葉の片田舎でも
「とんこつスープ」は

味の珍しさが手伝い、
がっつりと食したい若者たちの心もつかむと

瞬く間に
店には客が並ぶほど好評を博しました。

その衝撃は、
関東でも市民権を得、多くの店が出店しました。

その多くの店の中でも、
「九州じゃんがらラーメン」が多くの雑誌に取り上げられ注目を集めました。

40年前の1984年開業と書かれているので、

初めて食べたのは2年後の1986年のこととなります。

当時のj雑誌にも多く取り上げられましたので
職場の後輩、竹中さんとともに
原宿に進出した「九州じゃんがらラーメン」で

千葉から食しに行きました。

二人とも注文したメニューは意気込んで「全部のせ」。
あまりにも具材が多すぎて量が多く、
豚骨スープ本来の味もおいしさも隠れてしまい残念な印象でした。

 

 

味については個人の好みがあるので良し悪しは語りませんが、
トッピングを2品までに抑えていたら
スープのおいしさが引き出せたのではないかと

今でも思います。


食事は見栄や勢いでなく、
店の定番品を注文するのがよいと

学びました。

ブログを書くにあたり「じゃんがらラーメン」を調べたところ
現在でも食べログにも掲載されていました。
原宿とはかなり縁遠くなりました。

 

一緒に食した竹中さんといえば

日本共産党の党員だった

「竹中労」に通じるものがありました。

 

WIKIより

  • 1967年 - 映画『祇園祭』の制作をめぐり、日本共産党京都府委員会と対立し、党を除名になる
  • 1968年 - 山谷解放闘争を支援。『タレント帝国』で渡辺プロダクションのテレビ界支配を告発。
  • 1969年
    • 米軍統治下沖縄へ初めて渡り、琉球独立党を支援する。また多くの島唄のミュージシャンたちと交流しイベントの構成を行う。
    • 週刊明星』連載の「書かれざる美空ひばり」における「ひばりの歌声は差別の土壌から生まれて下層社会に共鳴の音波を広げたこと、あたかもそれは、世阿弥出雲のお国賎民階級から身を起こした河原者の系譜をほうふつとさせる。……ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」との文言が部落解放同盟に問題視され糾弾を受ける。この糾弾内容に激怒した竹中は、部落解放同盟に血闘を申し込んだ。このときのことを竹中は、著書に以下のように記している
    •  
    • 集英社に押しかけた(部落解放同盟の)代表のひとりは、掌をひろげて、「指が六本あるか!」としきりにいうのでした。何をバカなと、小生は虫酸のはしる思いがしました。この男は、部落解放運動半世紀の歴史を、最低の次元にまでひきずりおろしてみせたのです。おまけに、顔をなでて、「クロンボみたいに黒いか」とまでいう。黒人なら差別されて当然、とでもいうつもりか。このような愚か者が衆をたのんで出版社をおどし歩く、いったいこれが父親を感奮させた「水平社」のナレの果てかと、情なくてたまりませんでした