1960年代の青春映画のテーマは
「キューポラのある町」などのように、
社会的矛盾とその貧困の中で

強く生きる若者たちの姿を描いたものが多くみられました。

 

60年代後半から70年代前半は

国民の生活水準が徐々豊かになり、
加山雄三の若大将シリーズに代表される
青春を謳歌するような明るい内容のものが好まれました。

青山通りのレストラン「O&O」の項でも書きましたが、
六本木のアマンド周辺や青山の葡萄屋周辺には

夜な夜な若い男女が車で集まり、

若大将シリーズの青大将(田中邦衛)のような

生活を送る人たちもいましたが、

ファミレスがない時代、多くの人たちは無縁で、

下宿で友達と哲学的な話をしていたと思います。

 

そのなかでも、学生時代に流行ったスポーツとして「登山」があります。

 

「新宿発23時55分発 長野行き」の項でも書きましたが、
穂高をメインとしたアルプス登山ブームです。

 

大学では

登山部の他にワンダーフォーゲル部も共存しており、

 

謎の団体「グリークラブ」という合唱サークルでも、

校舎の隅に集まっては、

「山男」などの山岳賛歌を好んで歌っていました。

 

おそらく原理研や第三文明、民青や新左翼などと違い、

思想的背景はなかったと思いますが、

一年中、歌ばかり歌っていて私には異質な団体に見えました。

 

山に関する歌は明るいものが多かったのですが暗いものもあり、

それは、

フォークソングを歌うグループもおり、
カッレジフォークソングという名で呼ばれていました。

 

「いつかある日」は多くのコーラスグループに歌われている有名な曲ですが、

歌詞は

いつかある日、僕が山で死んだら

と、山に行く前から遭難を前提にした歌です。

 

山男の遭難死は
美学だったのかもしれませんが、

残されたもには迷惑な話です。

 

現在は、

生き延びるため

他人の臓器まで欲しがるほど生に対して固執するじだいになりましたが、

 

当時の人たちは

美しく(生きざまとして)死ぬことに

価値を見出していたのではないかと思います。

 

当時鑑賞した映画のラストシーンで、

山で遭難死した友を同じ山岳部員たちが

麓の広場で遺体を焚き上げた場面がありましたが、

まさに「これが青春だ」とばかりの感動的なカットでした。

 

皆が肩を組み鎮魂の歌を歌い、火の粉が空に舞い上がる場面の図



今思うと、山で勝手に火葬してよいのかと、

現実的な発想に陥ってしまいます。
年を取ると感動が少なくなり、理屈っぽくなるようです。

 

せっかくの機会なので。

山で遭難して亡くなった

少しだけ知り合いの話を書きます。

今から30年以上前の話で恐縮ですが、

先輩の紹介で、

俄か山登りの私のために、
本格的な山登りをする青年と

ご一緒させてもらい酒宴を共にしたことがあります。

その彼ですが、

1990年頃の秋に
「中国」に行ったのですが、

雪崩に巻き込まれ遭難、亡くなりました。


日本でもニュースになったようでしたが、

後日、再び酒先輩と飲みに行ったときに

亡くなったことを教えてくれました。

 

そのとき、翌年の春からの捜索のため、

野生動物が遺体を食い散らかかすことを心配していたことが

印象に残っています。

数年後、不幸中の幸いでしょうか、

数年後に

損傷の少ない遺体は発見されました。

 

 

この話の余談ですが、
出発前、彼には珍しく、
部屋を片付け、飲み屋の清算も終わらしていたそうです。

仲間内では
もっぱら「虫の知らせ」でないかと噂になりました。

 

私も
体力と一緒に山を登ってくれる友人がいれば、
終活を兼ねて

穂高の縦走を再び行いたいところですが、


両方とも失くしてしまいましたので、
麓から眺めるだけになってしまいました。

 

 

今日のブログを書き終わり、

この遭難事故の記録を残していないか調べたところ、

時期と内容から1991年「梅里雪山遭難」に

酷似ていることに気づきました。

この遭難かどうかはわかりませんが。

 

先輩とは疎遠をしていますのですが、

会うことがあれば詳細を聞いてみようと思います。