日本で一番有名な愛国者といえば、

私の世代では100%の方が

赤尾敏さんの名を挙げるのではないでしょうか。

 

清貧で潔白な政治活動家として

ある意味、高い評価を得ていました。

 

私が大学生のころには

赤尾敏先生は御存命で

銀座数寄屋橋に行くたびに街宣車のお立ち台に立ち

辻説法を行っていました

 

知名度は高かったのですが、

話す内容よりは存在感のみが重く

一般的には色物扱いでした。

 

当時の私も同様の認識で、

銀座に行くたびに見かける街宣車は

近寄りがたいものがありました。

 

 

ある程度年を経ると、

自分の生活よりも

これからの日本人の行く末を心配するようになります。

 

当時、政治には関心がありませんでしたが、

演説の内容が理解できるような年になり、

赤尾さんが

どのような理由で国を憂い危惧していたか、

耳を傾けたくなります。

 

夏になると県庁所在地の駅から5分も歩くと

パンツ(下着)1枚、上半身裸で自転車に乗り

自由に闊歩する外国人らしき人々の姿を日常的に目にします。

 

「日本は恥の文化」と言われ続けてきましたが、

共生でなく駆逐というかたちで

日本文化が衰退されつつある姿をみて

憂うばかりです。

 

 

 

 

WIKIによれば

赤尾敏 社会主義者からの転向

旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。一時、彼は療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。赤尾は仲間らと共に理想社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。

 

1965年1月31日、長崎県佐世保港空母エンタープライズが入港した時に抗議の演説をすべく佐世保市へ出かけたところ、市内でバイクをわき見運転をしていた16歳の少年にはねられるという事故に遭った。しかし赤尾はその少年が仕事でバイクに乗っていた事を知ると「16年の若さで仕事をしているとは感心だ」として訴える事はしなかった。

 

 

 

 

日本が右傾化させないために右翼の団体を設立し

国民が保守的な考えにならないように極端な行動をとらせている

との説もありますが、

赤尾敏さんと笹川良一さんのスタートは同じだったということで、

蓄財がない赤尾さんは、純粋な国粋主義者だったのでしょうね。

 

ちなみに姪御さんは国会議員に立候補していると思います。

 

 

街中によく張られていた、日本愛国党のポスター、地方でも貼られていました。