団扇(うちわ)の話

 

当時、よく遊んでいたのは

日暮里の     清〇グループ

蒲田の      石〇グループでしたが、

 

同列で仲良く遊んでいたのは M君でした。

 

彼の自宅が同じ県内なので、

卒業後も、

突然我が家へ遊びにきたり、

一緒に旅行をしたりと、かなり親しくしていたのですが、

 

国家公務員のキャリア採用に合格して

海外勤務が多くなり、年賀状だけの付き合いなってしまいました。

 

それでも時々電話をくれたのですが、

私が不在のことが多く、

携帯やメールがない時代なので

返事をおざなりにしているうちに

連絡が絶えてしまいました。

 

卒業後

彼の名が再び浮上したのは、15年後になります。

 

同期採用のTが

過激派との関係が露呈し処分を受けたらしく

退職した話が一部で広まりました。

 

その後も公安にマークされていたらしく、

 

親しくもなかった私のところへも、

彼の足取りを調べるために

聞き取りがやってきました。

 

当然、Mのところへも聞き取りに行っているはずなので、

 

聞き取りに来た公安に

Mの話題を振ったところ

 

彼らには殿上人らしく

言葉の端端から対応の違いが感じ取られました。

 

わたしがアメリカ&カナダの国境を陸路で移動をしていた時、

過激派の名前と同一の名がリストにあるということで

足止めを食らったことがあり

 

Tとの接触者の多くが

危険人物リストに掲載されていると妄想し、

彼にも同じように疑いがかけられていたはずと話題になりました。

 

しかし、そもそも私と違い、

声をかければ一斉に周囲の者が振り向くほどの一般的な姓ではなく

パスポートの色や出入国のゲートが違うはずと一笑されました。

 

その後、Mと偶然街中で会い、

不思議なもので互いに目が合い、

後日、交流の再開がはじまりました。

 

 

一方のT君

活動家として日本中を忙しく飛び回る一方で

実刑も受け、刑務所にもお世話になりました。

 

現在は活動家の農家の援農や

無農薬栽培等で実績を上げているようです。

 

歌手加藤登紀子さんの夫で学生運動界のスターだった

元反帝全学連委員長の故藤本敏夫さんも、

有機農業などに取り組む人でしたので、

運動の終結地点は農業なのでしょうか。

 

数年前に農業をしているとのことで遊びに行きました。

私のところへ

Tの調査のため公安が来たを話をすると、

今でも時々自宅のポストをあけられているような

気がすると話していました。

 

写真の会場は両国にあった日大の大講堂です。

その前は日本国技館でのちに日大が買い取ったものだと記憶しています。

 

私は1970年代、

日本プロレス全盛のころで、

馬場・猪木が最強のころに

試合を見に数回訪れました。

 

 

付録

M君…私はそれほど親しくないのですが、同じ学部でMの友人Gは

   現大物女優のN〇〇子のツバメをしていました。

   モデルから俳優になる過渡期です。

   当時のサラリーマンの2倍の給与を小遣いにもらいながら

   映画の助監督をしていました。その後の活躍は聞いていません。

 

 

T君…刑務所生活について聞いたことがあります。

    規則正しい毎日なので、

    健康的な生活が過ごせのではないかと問うたところ、

     食べることしか楽しみがないので体重が増え、

     出所したときは肝臓がフォアグラ状態だったとのことでした。

   少しでも取り調べや看守等に逆らうと独房に入れられ

   正座の時間が延々と続いたなどと、まことしやかに話してくれました。

 

学生時代、

努力をすれば夢はかなうと信じていた。

それは はかない夢物語だと知った。

 

真夏の夜の夢 William Shakespeare