現在は千葉在住ですが、

米穀通帳に記載されている住所は

子供の時のままかわらず

東京都港区のままです。

 

私が住んでいた愛宕神社周辺は

今でこそビルの立ち並ぶ虎ノ門の近くですが、

その頃は

まだ「三丁目の夕日」の世界でした。

 

港区女子なる言葉があるようですが、

当時の港区女子は、

おかっぱでサザエさんの「わかめちゃん」

きらびやかな派手な生活とは無縁でした。

 

自慢といえることは、

陶芸家の「島岡達三」先生の生家が同じ愛宕町であり、

後にご縁があったことです。

 

 

下の写真は東京オリンピック前後の 

港区白金1丁目の写真です。(港区HPより)

したがって当時の私の家の周りも、似たり寄ったりでした。

 

東京オリンピックやバブルが

つまらない無機質な街に変えてしまったのでしょうか。

 

平均年収で暮らせる世帯の面影はなく、

小銭をためた他府県や外国人の

居留地と化してしまいました。

大久保通りの街並み(昭和30年代)

 

よき時代の都内の主な交通手段はチンチン電車でした。

特に記憶に残っているのは、「チンチン電車」の架線です。

夜になると、

パンタと架線の接触部から火花がパチパチ飛んでいたのが

線香花火のように見えていたのが思い起こされます。

 

 

下の写真はトロリーバス 1967年の写真なので 

うちのVWバスはこの年に生産されました。

 

 

下の写真(三田通り)のように、

架線が道路の上を網の目状に張り巡りされていました。(60年前)

比較のため、同じ位置から移した現在の写真も貼っておきます。(グーグルより)

 

比較するビルの高さが低いので、東京タワーが大きく見えていました。

三井銀行の看板が見えますが、

現在も三井住友銀行として同位置で営業しています。

 

 

チンチン電車の呼称については、以下の説が有力です。(引用)

 

なぜ、チンチン電車「ちんちん電車」という名称は、昔の路面電車特有の運行方法が由来と なっているんですね。 昔の路面電車は、ワンマン運転ではなく、車掌と運転士がいました。車掌と運転士 の間で行われる合図などの連絡手段として、鐘を鳴らしていたんですね。 走行中、お客さんのいない駅を通過するときや、駅停車時の乗降終了などの合図に 使われていた鐘の音が、「チンチン」と鳴っていたことから、「ちんちん電車」 という通称が付いて広まったのでした。