その日、晴美は体調を崩して教会に行く事が出来ず、とても焦っていた。
信仰があるからではない、そこで今週生きる為の食材を確保する為だ。

数日後、晴美は純子の家を訪ねた。
外から様子を伺って純子を探したが、純子はいないようだった。以前、普通に家を訪ねて行った時に、純子の姑から口汚く罵られたので顔を会わせるのを避けていたのだ。
諦めかけて踵を返した時、純子がご主人と手を繋いで帰って来るのが見えた。

純子は、晴美に気がつくと小走りで近寄って来て
「晴美さん、体調崩したんだって、大丈夫?」
と声をかけて来た。

その横をご主人が、
「オンマ、先に入ってるね」
と声をかけて行った。
純子は、
「いつもの用意してあるから、ちょっと待ってね。」
と言って、ご主人の後を追うように家の中に入って行った。
暫くすると、ビニール袋2つに野菜や米、お菓子なども入れて持ってきてくれた。

晴美は、それらを受け取ると挨拶をして帰って行った。

晴美の脳裏には、幸せそうに手を繋いで歩く純子の姿が焼きついた。
確かに純子も苦労している。しかし、晴美のそれとは全く違うように思えた。

純子がいなければ、食べる事も、或いは生きていく事も出来ないかも知れない。
それでも、晴美は酷く裏切られた気分になって冬枯れの道を泣きながら歩いて帰った。

今日、夫は病院へ行っている。とっくに終わっている時間だが、夜になってもまだ帰ってこない。
晴美は、純子から貰った貴重な食材で必要以上に晩御飯を作ってしまっていたのだが、とっくに冷めてしまっている。

案の定、夫は酒を飲んで帰ってきた。
あれ程医者に止められていても、この人は変わる事が出来ない。
普段は、言ってもどうにもならないので、話しをしたりしないのだが、その日の晴美は自分の感情を抑えることが出来ず夫に意見した。

夫は赤い顔を更に赤くし、晴美の顔面を思いっきり拳で殴った。晴美は勢いあまって壁まで跳んだ。引っ叩かれたり、蹴られるという暴力は日常茶飯事だったが、ここまで強く殴られたのは初めてだった。
晴美は恐怖で慄きながら、それでも治まらず家の中を壊す夫を見ているしか出来なかった。
ようやく落ち着いたのか、夫は乱雑になった部屋で、そのまま布団を被って寝てしまった。

電気も消えた部屋の片隅で、晴美は壁にもたれながら膝を抱えてぼうっとしていた。
左顔面に心臓があるかのようにドクドクしていたが、痛みは感じられず、晴美はもう自分が生きているのか死んでいるのかもわからなかった。

ふと、光を感じ窓を見上げると、そこから月が見えた。
白く真円の月、暗闇の世界にあいた光の穴だ。
晴美は不思議な既視感を感じた。

(どこかで、見た事がある…。どこで見たのだろう…。そうだ、実家の近くの川から見たんだ。)

桜の季節、あの時見た月は本当に美しかった。

(そういえば、どうしてあの時泣いたのだろう)

結婚という理想が遠くにあるように思えて、淋しさのあまり涙を流したのだ。
しかし、今思えばたわいもない事のように思える。
少し勇気を出せば、一歩進めば、きっとそれは手に届く場所にあったんだ。今の晴美にはそれが、痛いほどよくわかる。
何故なら、今はもう決して手の届かない所にあるからだ。

美しい月は晴美の瞳の中で揺れた。


「チュギョ、(殺してくれ)」

それは、突然静寂の中で聞こえた。

寝言だったかも知れない。
あるいは、空耳だったかも知れない。

重要なのは、晴美の耳には確かにそう聞こえたという事だ。

(そうよ、そうだわ。この人だって生きてて何の意味があるの?家族や親戚にも疎まれ、病気で働く事も出来ない。女房も養えず暴力でしか応える事しか出来ない…。この人にも生きていく意味などないんだわ。そうよ、私が送ってあげなくては…)

危険な思考は、甘い蜜のように晴美の心を蝕んだ。

晴美は、音もなくすうっと立ち上がると側にあったタオルを、寝ている夫の顔面に思いっきり押しつけた。
普段は、どこにそんな力があるんだという力で暴力をふるう夫も、僅かばかりの抵抗を見せただけで、あっさりと動かなくなった。

晴美は再び、先ほどいた場所に同じように座ったが、窓の外の月は、もう見えなくなっていた。




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