4月3日の日曜日、午後から雨が降る天気予報だったので、
午前7時から庭の草むしりに取り掛かることにした。
春の草は、勢いがよく日に日に大きくなっていくが、
いがいと根は地面に這ってないので、スルッと抜けやすい草が多い。
若い時は、庭掃除は地面には一本の草もない程
整然とした掃除が好きだった。
掃除が終わった後を見渡しスッキリした気分を味わった。
今から出てくる球根の芽も草と一緒に
手持ちの草がまで剃りおとし、いつも叱られていた。
土から1cm足らずしか頭をだしていない球根の芽と
草の違いがわかるはずもない私にとっては、
どうでもいいことだったにちがいない。
それから
だんだん年齢を重ねるとともに、機械にたよるようになった。
しゃがんだ姿勢での草取りは若い時のようにいかない。
1時間もたてば、立ちあがった時にかなり腰にくる。
機械にたよるようになったのはそれだけではない。
”早さが勝負”の掃除になってきた。
あちこちに雑な掃除の痕跡を残しているが、計画どおりに掃除が進む。
スッキリ感の実感は薄らいだが、”まぁ いいか!”と、時間の中で掃除を進める。
今回の掃除はいつもと違う。後に予定がなかったせいか
雨が降るまえに少しでもぐらいの気持ちで取り掛かった。
土の上に座って草の根元をひとつひとつつまむ。
草に花のつぼみがついているのをみつけた。
”これ抜くのよしとこう” “これももうちょい” ”これもやばいなぁ~”
草がなかなか抜けない。
これまで見えなかった球根の小さな芽もよくわかる。
結局、あちこち花が咲きそうな草をのこしたまま庭は綺麗にならづ終いで終わる。
5時間かけていつもの1/5も進めなかったが何だかいい気分が残った。
これまでの私の掃除は、綺麗にすること・終わらせることが目的だった間は
草抜きは私にとって『労働』でしかなかった。
終わらせろ・綺麗にしろなどの目的がない草抜きは、労働とはまったくちがった。
草の命が感じられる。草に思いを寄せる。草とこころの交流をする。
ふと、歳をとるとはこうゆうことなのかなぁ・・・・とおもった。
父母を見てきてもそうだった。
仕事が早いわけでもない。きれいな仕上がりといえばそうでもない。
でも、動作一つひとつが丁寧でやさしい。
また、ふとおもう。
草抜きだけでなく、自分の係る仕事においてはどうだろうか?
歳とともにそんな質の仕事がきているだろうか?
よぉし!草とのおしゃべりは定年後の楽しみにとっておいて、
花が咲きおわったら、草刈り機のマキタMEM428X ガンガンかけてバンバン削りそるっきねぇ~!
だってまだ若いでいたいやん! 年とりたくないやん!
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