~五月山春のフェスティバル その①~

  ~五月山春のフェスティバル その②~

     ~60歳の新しい門出!~

~統一地方選挙終わって初めての薫風政治塾~

 おはようございます。5月11日(月)池田の朝は爽やかな晴天のスタートです。

 「ぼくらの町の ぼくらの祭り 五月山春のフェスティバル」も38回目を迎えました。1976年、「カリフォルニア祭りをイメージして手作りの祭りを池田の五月山で実行しよう」と、とてつもないでっかい夢(今では何でもないことなのかも)を語るおじさんがいました。おじさんと言っても今から思うとまだ40歳になっておられなかったのかも?彼は阪急電鉄を退職してアメリカでギター修業を積んできたという、変わり種のおじさん(?)でした。

 そのころの池田はと言うと、1975年の春に51歳の若生市長、そして26歳の倉田市議が誕生、同時に自民、共産、公明だけでも新人議員が6人誕生するという市政の一つの転換期でもあったように思います。

 手作りの祭りを提唱したおじさんは無党派のわけのわからない、「文化人(ひょっとして宇宙人だったかも)」でした。彼の提唱にまずいち早く反応したのが歌声サークルの若者たちでした。「歌う民青、踊る民青」そんな言葉を覚えておられる方もおありでしょう?その歌声サークルはいわゆる民青、どちらかと言うと共産党を支持する青年の皆さんの集まりでもあったように思います。

 ピカピカの一年生、自民党の青年議員であった私に声をかけてくれて、そのおじさんを紹介してくれたのは共産党のピカピカの一年生議員のTさんでした。実は彼も阪急電鉄の出身でそのおじさんとは昔なじみ、職場の友だったのです。

 T議員は池田のおける新しい文化運動として、あたらしい住民運動としての手作りの祭りに共感し、党派を超えたまちおこし運動としてのパートナーに私を選んでくれたのです。
 
 「あれは共産党の運動の一つではないのか、そんなところに手を貸して大丈夫か」「彼は自民党の中でもタカ派、青嵐会だぞ。そんなものと手を組むなんて・・・」私にも、T議員にもそれぞれ批判勢力、抵抗勢力が現れて障害になった時期もありました。
 まあ、お互いに若かったのでしょう、そんな声は一切無視して前に前にと進んでいきました。「赤い色に白い色を混ぜればピンクになる。もっと白を混ぜればそのうちに赤を感じないほど白に近づくのではないか」私はそう言い切ったものです。

 今年の実行委員長は池田青年会議所の福田理事長でした。彼がこの祭りの起こりをどこまで知ってくれているかはわかりませんが、歴代の青年会議所の理事長の何人か(私もその一人ですが)がこの春フェスの実行委員長を務めてくれています。

 いつのころからか、この春フェスは真っ白な「ぼくらの町の ぼくらの祭り」になっています。市民の手作りの祭りは見事に池田市の年中行事の一つに数えられるまでに定着しました。その陰には今なお裏方で頑張ってくれているチャーターメンバーの頑張りがあることを見逃す訳には参りませんが、そのチャーターメンバーの数も少なくなってきました。

 でもでも、「ぼくらの町の ぼくらの祭り」五月山春のフェスティバルは今後も手作りの祭りとして五月山に。池田市に根を張ってくれるであろうことを確信した土曜日でした。

 その夜、薫風政治塾の常連オブザーバーの難波さんの定年退職を祝う「難波秀哉君の前途を祝う会」に出席させていただいてまいりました。
 60歳の新しい門出、彼は関西テレビを退職して地元枚方で「社団法人・くらわんか枚方・夢プロジェクト」を設立したそうです。

 あれから約40年たって・・・、「ひょっとしたらこのおじさん、その文化人(宇宙人)の再来なのかな。枚方で新しい文化運動のウェーブを起こしてくれるのかも・・・・。」そんなことをふと思ってほくそえんでいる私でした・・・・。

 またまた長くなってきましたがもう少し・・・。

 昨日は統一地方選挙が終わって初めての薫風政治塾でしたがこの選挙での当選者6人、落選者1人を含む14人が参加してくれて久しぶりににぎやかで活気のある意見交換をさせて頂きました。
 「地方議会の役割と議員の資質について」「車の両輪であった首長と議会は一輪車になった」「将来に備え『負担』という『苦い薬』も飲まないと・・・」「地方議会は手抜きをする『怠け者の楽園』になってはいけない」・・・私からは元鳥取県知事の片山善博さんや元三重県知事の北川正恭さん等の言葉を紹介しながらお話をさせて頂きました。そして、新人議員も現職再選組も今同じ原点からのスタートであることを肝に銘じて「For the people」の姿勢で頑張ってくれるように申し上げておきました。

 ということで皆さん、今日も一日、楽しく明るく、元気に頑張りましょう!